日本や世界の経済ニュースに登場する「?」な話題やキーワードを、丁寧に分かりやすく解説。ずっと疑問だった出来事も、誰にも聞けなかった用語の意味も、スッキリ分かれば経済学がグンと身近に。解説・文=岡地勝二(龍谷大学名誉教授)
第60回:経済学者は、経済理論をどのように構築するのか
はじめに――
先月号(3月号)で、日本でかつてノーベル経済学賞に極めて近かった森嶋通夫先生という高名な経済学者について述べました。すると「日本には森嶋先生しか受賞適任者はいなかったのか」という問いが聞こえてきました。いいえ、そんなことはありません。何しろ日本は、これまで「奇跡の高度経済成長」をもたらした国ですから、高度経済成長を支えてきた優秀な経済学者や理論家がたくさんいらっしゃったことは間違いありません。
もっとも、経済学者だけでなく、学者や研究者は、賞を目的として研究に励むということは恐らくありません。研究に懸命に取り組んだ結果、高度な評価に結びつくのだと思われます。
今回は、「宇沢弘文」という高名な経済学者について書きたいと思います。
経済学者の生態
私は宇沢先生の弟子や学生ではありませんでしたが、宇沢先生が提唱した「経済理論」を名古屋市立大学での大学院時代に指導教授の指導に従って、2部門の理論といわれる「ウザワ理論」を学んだことを鮮明に覚えています。また、ほんの小さな接点もありました。
私が新米の大学教師の時、勤務している大学からフロリダ州立大学へ留学を命じられました。当該大学では、経済学を学んでいる人なら大抵知っているであろう「アバ・P・ラーナー」という高名な先生が教授をしていらっしゃいました。ラーナー先生は、外国為替市場の安定条件を勉強する時に必ず学ぶ「マーシャル・ラーナー条件」を提唱した中の1人です。ラーナー先生は1930年代の中頃、イギリスでケインズと親しくなり、ケインズ経済学をいち早く世界に知らしめたという大きな功績のある偉大な経済学者でした。しかし、ラーナー先生はアメリカでの研究条件にあまり恵まれず、細々と研究生活を送るという立派な業績の割には寂しい学究生活だったようです。
当時ラーナー先生は高齢でしたが、お元気で研究に没頭されていました。その姿に、歴史に残る学者とはこのように、いつまでも学問に励むものなのかと感心しました。
ある日、私はラーナー先生から研究室に呼び出されました。出来の良くない私は、きっと「もう自分の講義には出席しなくていいよ」という宣告かと恐る恐る研究室に伺うと、いきなり「日本のウザワに手紙を書いて欲しい」と言われるではありませんか。ラーナー先生は当時『Flation』という本を完成された直後でしたので、この本を宇沢先生に翻訳してもらい、日本の人びとにも読んでほしいという旨を手紙で送りたいとのことでした。そこで私は、「天下のウザワ先生」に手紙を書き、ラーナー先生の思いを伝えました。
すると折り返し返事があり、「翻訳はできない、その代わり君が翻訳しなさい」と記されていました。ラーナー先生に宇沢先生のお返事をお伝えしたところ、翻訳を断られてとても落胆されてしまいました。ラーナー先生と宇沢先生はとても親しかったこともあり、きっとウザワは翻訳を引き受けてくれる、と信じていたのです。ちなみに私には、宇沢先生より「君が本を翻訳をしなさい」と連絡が来たことを、ラーナー先生に告げる勇気など全くありませんでした。
そんなごく小さな接点ですが、それ以来私は宇沢先生の書物を身近に感じるようになりました。
宇沢先生は、元は数学者として研究生活に入ったのですが、数学ではこの社会の問題を解けないと感じ、経済の道に入っていきました。当時、アメリカの名門大学であるスタンフォード大学には54歳の若さでノーベル経済学賞を受賞していて、サムエルソンと義兄弟でもある優秀で高名な経済学者のケネス・アローが在籍しており、彼の招きによって宇沢先生はスタンフォード大学で研究者生活を始めたのです。
経済学は、社会科学分野の中でも数学的分析を重要視する学問です。数学者でもある宇沢先生には、理論経済学に没頭するまたとないチャンスでした。戦後間もないアメリカにて、極めて有名な経済学者であるサムエルソン教授が、経済理論に数学的分析手法を取り入れて社会の問題を分析する手法を編み出し、それが世界の経済学を飛躍的に発展させました。そこで数学を専門とした宇沢先生の出番となったのです。
ウザワ理論の成果
優秀な人が脇目も振らず、日夜学問に没頭すれば、その成果は見事なものであるのは当然です。
ノーベル賞に値するといわれている宇沢先生の研究に、「経済成長論の2部門モデル」というものが挙げられます。18世紀後半にイギリスに現れたアダム・スミス以来、たくさんの経済学の研究者にとっての研究目的は、一国の成長をいかにして成し遂げるか、その方法を解明することでした。
一国の経済を成長させるために必要なのは、「資本・労働・土地、さらに技術」であることは間違いありません。これらを生産要素といいます。これらの要素をいかに効率的に用いてより多くの物を作り出すのか、それを研究するのが経済学の役割です。
経済研究者は、今ある国の経済成長に生産要素はどれくらい貢献したのか、という事実を数字ではじき出すことによって解明するのです。ある国の経済体系を見てみると、大きく分けて2つの部門から成り立っていると考えられます。
それは消費財を造る部門と、投資財を造る部門から成り立っており、これらを「2部門」といいます。この2部門にどう生産要素を振り分ければ、より効果的にその国の生産量が増大するのかということを分析したのが「2部門分析」といわれる分析手法なのです。
この論文が宇沢先生によって発表されてから、世界の近代経済学関係者はこぞって勉強したのです。私ごときは、ただ名前だけでその分析過程を深く追究するには経済学の知識が足りませんでしたので、たくさんのウザワ理論追従者に従って、その結果だけをなるほど、という気持ちで知るだけでした。
それでも、あの「ラーナー先生の手紙」のこともあり、宇沢経済理論など分からなくても、遠く京都の地から宇沢先生を尊敬していました。
世界のウザワから日本のウザワへ
アメリカの経済学研究では「ここが1番」といわれるシカゴ大学で、世界のウザワは研究に没頭されるかと世界中の経済学研究者が一様に思っていた矢先に、突如として宇沢先生は、「もうアメリカはたくさんだ」と言わんばかりに日本に戻って来られたのです。「2部門分析」によって経済成長論を大きく転換させ、ノーベル経済学賞は間違いなしと思われていたのにです。そんな世界中の期待を背にして宇沢先生は、なぜ日本へ戻られたのでしょうか。たくさんの人びとが疑問に思いました。
私は、「ウザワ理論」に対して尊敬を大いに払うもののそれらの理論を理解する能力も不十分なので、宇沢先生の学問的動機などについては深く知り得る道理もありません。しかし、宇沢先生は、経済学関係の専門書以外にもたくさんの「啓蒙書」を世に出されていますので、それらの書物を通じて先生の思いを読み解きたいと思います。
宇沢先生の、いわゆる「伝記的な読み物」を紐解くと、69年に、シカゴ大学から「逃れるように」して日本へ帰られた理由が理解できます。60年代といえば、あの有名な「ベトナム戦争」が始まり、そしてその戦争に対する賛否がアメリカの社会で渦を巻いていました。
私が最初にジョージア大学へ留学したのが、65年でした。その時、キャンパスの中ではベトナム戦争反対運動が繰り返されていました。そのベトナム戦争を遂行する知恵袋の集団が、シカゴ大学にあったのです。その筆頭が、ミルトン・フリードマンという有名な教授でした。
このフリードマンは思想的には右翼的でしたが、経済の理論家としては有名な学者であり、73年から世界の通貨制度の「変動相場制」導入の理論的な支柱でもありました。当然フリードマンは、当時のアメリカ政府の知恵袋としてベトナム戦争を遂行するアドバイザー的な役割を担っていたのです。
そこで宇沢先生の若い教え子たちや優秀な研究者が、ベトナム戦争反対という理由で大学を追われる、という出来事が起こると、正義感に厚い宇沢先生は、そんなアメリカにさっさと見切りをつけて日本へ帰って来られたのでした。それは69年のことでした。
日本へ帰ってから、宇沢先生は日本社会の荒廃にあぜんとしたようです。これまで人びとを心から楽しませてくれていた、日本の原風景がこつぜんと消え去っていたためです。それも「人為的」に。その原因は「自動車」という乗り物です。
そこで宇沢先生は、伝統ある日本社会が失われていくのをこのまま見ているだけでいいのかと、自動車という物の存在意義を広く人びとに問いかけたのです。それは1冊の本として人びとの胸の中に残りました。その本は『自動車の社会的費用』と名付けられ、日本社会における変革の礎という役割を果たすこととなりました。
宇沢先生はこの本の中で、人間が自動車と「共存」できるには莫大な費用を必要としているが、その費用はどのようにして補うのか。それは自動車会社が負担することなのか、また、それを許している政府の責任でもあると行政当局の自動車産業に対する指導の在り方を真正面から問いただしています。
この姿を見ていると、宇沢先生は紛れもなく社会科学者だ、という実感が読み取れます。
岡地勝二
関西大学経済学部卒業。在学中、ロータリークラブ奨学生としてジョージア大学に留学、ジョージア大学大学院にてM.A.修得。名古屋市立大学大学院博士課程単位終了後退学。フロリダ州立大学院博士課程卒業Ph.D.修得。京都大学経済学博士、龍谷大学経済学教授を経て現在、龍谷大学名誉教授。経済産業分析研究所主宰