命の連鎖/福島先生の人生日々勉強

福島先生の人生日々勉強
命の連鎖

随分前に亡くなった祖母がまだ元気だったころ、「人間死んだらおしまいです」と言っていたのを今でもよく覚えています。「死んだら何も残らない」「生きているうちが花よ」と。戦争や災害で身内の死を幾つも見送ってきた祖母にとって、それは真実の声だったに違いありません。幼かった私に語られたこれらの言葉たちは、その後の死生観に少なからず影響を与えたのだろうと思いますし、「命を粗末に扱ってはならない」「たった1つの頂いた命を大切にしよう」と、いつの日も念じるように生きてきた実感もあります。

仏教的な考え方から言えば、人間の体と心は一体ですから、体が失われてしまえば残念ながら心も消えてなくなってしまいます。霊魂というものだけが肉体から離れて存在し続けるということはあり得ないことです。昔語りの世界ではよく、死んでも生き続ける魂が出てきて、恨みを晴らしたり、忠義を果たしたりするものですが、現実にはそれは無理というものです。肉体と共に消滅してしまった魂が、やり残した仕事を果たすことなどできるわけがないのは当然のことです。それではなぜ菩提(ぼだい)を弔(とむら)うのかというと、当人が亡くなってもなくならないものがあるからです。

人間が死ねば、肉体と共に魂も消滅してしまいますが、その人が生きている間にこの世で過ごした「業」だけは残ります。業とは、善も悪も全てひっくるめたその人の行為のことです。作家が本を書き残す、画家が絵を描き残す、といったことに限らず、いかなる業も、生前に関わった人びとやその子孫の中に残されていくことになりますし、たどりたどれば、亡くなった人物がこの世に存在したということだけで、この世の全てに何かしらの影響を与えていることになります。業を突き詰めていくと、赤の他人など、本当はどこにもいないのです。良くも悪くも、生前の業だけはいつまでも残るので、その業を清めるために必要なのが供養というわけです。

そう考えてみれば、供養というのは、亡くなった故人1人の魂の行方を安らかにするためというよりは、その人の残していった業を含めて生きとし生けるもの全て、この世に命が誕生してから現在までの命のつながり全てを清めることで、自分もまたより良い業をこの世に残していくための深遠な準備をすることなのだということが分かります。人が死ぬということは純然たるものであり、誰にも避けられないものですが、だからこそ、どのような心掛けで生きるかということが、何よりも大切なことに思えます。

生きる途中で命が尽きるというのも、命というものが1人で完成するものではなく、永遠に皆で紡いでいくものだからなのでしょう。どれほどひっそりとこの世の片隅で咲こうとも、その命は、未来永劫続いていくのです。


福島先生の教育指導

教育専門家:福島 摂子
大阪府出身。32年間、教育に携わり、教育カウンセリング・海外帰国子女指導を主に手がける。1992年に来豪。シドニーに私塾『福島塾』を開き、社会に奉仕する創造的な人間を育てることを使命として、幼児から大学生までの指導を行う。2005年10月より拠点を日本へ移し、日々活動の幅を広げていく一方で、オーストラリア在住者に対する情報提供やカウンセリング指導も継続中である。

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