カウラ捕虜収容所脱走事件70周年

日本から唯一人の体験者出席

 第二次大戦中、日本は捕虜の扱いに関するジュネーブ条約を批准していなかった。そればかりでなく、兵士に捕虜教育もしていなかった。そもそも「生きて虜囚の辱めを受けず」という建前だから捕虜になった場合の心得を教育することはできなかった。しかし、当時のオーストラリア側のカウラでの日本兵捕虜の扱いはかなり緩やかだった。それはカウラ捕虜収容所脱走事件の前年に起きたニュージーランド北島のフェザーストンの捕虜収容所での日本兵捕虜射殺事件前後の捕虜の扱いにも言える。日本兵捕虜はむしろ日本国内で自分の家族が白い眼で見られることを怖れていたとされている。

 8月5日のABC放送とシドニー・モーニング・ヘラルド紙は、日本から元カウラ収容所捕虜の村上輝夫氏(93)がカウラ捕虜収容所の墓参と地元民との友好のために再び訪れたことを報じている。村上氏は今回が最後になるだろうと語っている。

 70年前のこの日の500人を超える日本兵捕虜脱走はオーストラリア警備兵に射殺された者の他、逃げられないと観念して鉄道飛び込み自殺をするなどで合わせて日本兵は231人、オーストラリア側にも4人の死者を出し、脱走事件がおさまった後も25人が自殺などで亡くなっている。捕虜収容所に入ってまだ間のなかった村上氏も脱走に加わわったが、トイレット・ペーパーを配られて丸か×を記すようにと言われ、およそ脱走に反対できる雰囲気ではなかったといわれている。

 70年後のこの日、地元市民の歓迎を受けた村上氏は、オーストラリア主催者へのメッセージを尋ねられると、「申し訳なかった」と謝罪した。脱走後、村上氏は溝に隠れて機関銃の射撃を避け、夜明けになって投降した。カウラでは5日間の予定で記念行事が行われるが、捕虜生き残りの他の人達はすでにオーストラリアまで来る元気もなく、村上氏だけが行事に参加するため、日豪間の平和と友好のメッセージを携えてきた。

 オーストラリア側主催者のローレンス・ライアン氏は、「この行事は事件で亡くなった人々を追悼し、事件を思い起こし、平和と和解、友好を推進することを目的としている」と語っている。また、村上氏は、脱走した後、ただ死ねばいいというものではないと考え直したと語り、それはいつ頃のことかと尋ねられると、「分からない。しかし、生きていて良かったと思う」と語っている。(NP)

http://www.smh.com.au/national/cowra-breakout-survivor-pays-his-respects-20140803-zzzlr.html

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