【現代アート】「現代アート」と「前衛芸術」の違いは何ですか?

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関心はあるものの、実はまったく理解できない! いったいどこから勉強していいのか分からない! そんな読者の心の声に答えるべく登場したこのコラム。奥深い現代アートの世界に対する素朴な疑問に、著者がずばり回答。優しく解説してくれます。これを読めば、芸術の世界がぐっと身近に感じられるはず。

第25回 “「現代アート」と「前衛芸術」の違いは何ですか?”

『キューティー&ボクサー』(2013年公開、監督:ザカリー・ハインザーリング)
『キューティー&ボクサー』(2013年公開、監督:ザカリー・ハインザーリング)

前衛芸術は、フランス語の“Avant-garde”を翻訳したもので、戦闘の最前線に位置し、何かに対する攻撃というニュアンスがあります。この用語は、レナト・ポッジョーリというイタリアの美術批評家が使ったのが始まりらしく、イタリア未来派、シュールリアリズム、デュシャンを含むダダなどを始めとした、伝統的芸術という枠を破壊し超えていく活動に対して与えられた名称です。

アバンギャルド芸術論で有名なのが、ドイツのピーター・ビュルガーです。彼は前衛の文法を規定して、「意味の否定=受け手のショック=受け手自身の生活の再考」と言っています。つまり、アバンギャルドの作品は本来、ある「意味」に収斂(しゅうれん)されることを超えるインパクトがあり、観客にとってはショックであるが、そのショックがあるからこそ後で自身の文脈で、生活をアートの文脈で考え直す契機があるということです。前衛芸術家ではありませんが、詩人のイエーツは「私の詩は読者にショックを与えるものだ。そのショックにより後で身につまされて再考ができるのだ」と似たことを言っています。

ビュルガーは、前衛芸術を初期の「アバンギャルド」と後期の「ネオ・アバンギャルド」の2つに分け後者を、「ネオ・アバンギャルドはアバンギャルドを制度化してしまい、その本来の意図を台無しにしてしまった」と批判しました。続けて「本来の先端性と攻撃性の革新性と暴力を削がれたネオ・アバンギャルドは、前衛の作家たちが切り開いた美術という伝統的枠組み(美術館・画廊)を破壊し乗り越えようとした活動を引き継がず、かえって保守的になってしまった。ネオ・アバンギャルディストたちは、美術という枠組みの中で、有意味の活動であるかもしれないものの、観客にショックも与えず踊っているだけの、言わばコップの中の嵐だ」と言うのです。

アメリカの前衛アートとしては、1950・60年代の、アラン・カプローを論客かつ仕掛け人とした「ハプニング」が重要です。このハプニングでは、傘などを持参するように求めたり、観客を巻き込んで絵の具やミルクをぶっかけるといった活動がありました。

日本では、具体、ハイレッド・センター、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(ネオダダ)や時間派といった、いわゆる1960・70年代の前衛芸術家たちの活動を指します。岡本太郎も「芸術は爆発だ」のフレーズで、自身が常に前衛であることをアピールしていました。

1949年にスタートした「読売アンデパンダン展」は重要で、日本前衛芸術家の無法地帯として機能していました。ネオダダ・オルガナイザーの赤瀬川原平、グループ鋭の工藤哲巳(ダダカン)などは、同展で活躍した作家たちです。同展はあまりに過激な表現によりトラブルが発生し、1964年の第16回展直前、突然開催中止がアナウンスされました。

1980年台には東京都美術館の前衛美術展があったのですが、その後、同館では器物の破損や観客への危害を恐れてか、「陳列作品規格基準要項」を制定しました。その要項で禁止された作品とは、①不快音または高音を発する仕掛けのある作品、②悪臭を発しまたは腐敗の恐れのある素材を使用した作品、③刃物などを素材に使用し危害を及ぼす恐れのある作品、④観覧者に著しく不快感を与える作品などで公衆衛生法規に触れる恐れがある作品、⑤砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損・汚染するような素材を使用した作品、⑥天井より直接つり下げる作品、といったものでした。

70年台にネオ・ダダオルガナイザーにモヒカン刈りで参加していた篠原有司男氏はその後ニューヨークに渡り、そこで知り合った乃り子夫人と「前衛アーティスト」生活を続けています。彼らの「前衛」生活は『キューティー&ボクサー』という映画となり、評判になりました。篠原氏は前衛芸術家の最後の生き残りと言えるかもしれません。

ではどの当たりから、前衛は保守的になり、ビュルガーが批判するネオ・アバンギャルドになったのでしょうか? 1960・70年代は、学生運動、ベトナム戦争、人種問題、共産主義運動とその崩壊と、「敵」は大資本家であり、帝国主義者であり、人種差別主義者であり、資本主義対共産主義の図式であり、サイードが唱導するようなオリエンタリズムでありました。80年台になってその敵は、思想家や芸術家にとっても見えない時代になりました。オイル・マネーを始めとして巨大で計り知れない資本、インターネットの発達などによる高度資本主義は、全てを飲み込む怪物と言えます。

現代美術はこの「敵のいない時代」に直面しているのです。現代美術家は、フランスの思想家ドゥルーズが「新しいものは何もない。アレンジメントのみが可能である」と言ったように、資本主義社会の広告や商品を逆に流用したシミュレーショニズムや、ポップ・アート、ビエンナーレ国際美術展の巨大な予算を使ったインスタレーション・アート、ジェンダーの存在を敵とするフェミニズムの美術などがありますが、新しく台頭してきた中国の現代美術も取り込んで、ガゴーシアンなどを始めとした巨大化した画廊、オークショナーなどに取り込まれないと現代美術家として成功できない構図ができつつあります。その意味で現代美術は「制度」に取り込まれていると言えます。

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<著者プロフィル>
登崎榮一(Ph.D)
◎メルボルン大学哲学/美術史並びにモナーシュ大学 アート&デザインでPhDを取得。現在は、アーティストとして活躍するほか、ディーキン大学でも講師を務める。
Web: bimanualdrawing.wordpress.com

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