【新年特別インタビュー】ABCブロードキャスター クミ・タグチさん

私は豪州人であり、日本人でもある

新年特別インタビュー
ABC ブロードキャスター
クミ・タグチさん

Photo: ©Naoto Ijichi

公共放送ABCの看板キャスターとして活躍するクミ・タグチさん。ABCラジオで日本語放送に携わっていた日本人の父と、日本文化を愛するオーストラリア人の母を持つ日系2世だが、年を重ねると共に自分の中の日本人らしさを強く認識するようになったという。亡き父への思い、日系オーストラリア人としてのアイデンティティー、ジャーナリストとしての矜持などについて聞いた。(取材・執筆=ジャーナリスト・守屋太郎、構成・写真=本紙・伊地知直緒人)

「あなたは私の質問に答えていない! 質問に答えてください!」――。タグチさんが以前、ABCの時事番組で、時の宰相を相手に全く怯むことなく鋭いナイフのように切り込んでいたのを記者は覚えている。

ところが、テレビ画面のイメージと、実際に会った印象は全く違った。

「日本語をあまり話せなくてごめんなさい」

シドニーのABCアルティモ・センターに現れた彼女は、初対面の日本人のようにペコリと頭を下げる。すれ違う現場スタッフにも笑顔で声を掛けて労っている。局を代表するエース・キャスターであるにもかかわらず、低姿勢で常に周囲に気を配る姿が印象的だった。

タグチさんの父親、故・田口明さんはかつて日本で朝日新聞社で記者を務めていた。1960年代後期、日本に長年住んでいたオーストラリア人の母と東京で出会い、国際結婚。長女(タグチさんの姉)を授かった。

その後、田口家は74年、メルボルンに移り住む。明さんが「ABCラジオ・オーストラリア」(ABCがかつて海外向けに放送していたラジオ局)のジャーナリストとして採用されたからだ。オーストラリアのニュースや話題を日本語で放送するのが仕事だった。

明さんは77年に創刊した日豪プレスにも記事を書いた。創業者の坂井健二氏によると「オーストラリアの政治や社会に関する硬派な記事を寄稿してもらった」という。ペンを片手にポーズを取る写真(下記に掲載)は、本紙でも彼のトレードマークだった。

Kumi-Taguchi

ジャーナリストは父の遺伝子

――ジャーナリストの道を歩み、今、同じABCでキャスターを務めているのは、父親の影響だったのですか?

私は、家族が移住した後、メルボルンで生まれました。しかし、両親は私が5歳の時に別離したので、父と一緒に暮らしていた時の記憶がほとんどありません。その後、おおむね1年に一度くらいの頻度で父と会っていましたが、私が幼いころ、父は戦争の体験や仕事の話を一切しませんでした。

そのため、私が大人になってからジャーナリストになったのは、父の影響ではありません。むしろ父の「血」あるいは「遺伝子」がそうさせたのでしょう。姉は、服を作るのが好きだった母に似てクリエーティブな才能がありましたが、私は物事の「なぜ?」に関心があり、父に似ていたのです。

父の書斎で「日豪プレス」と書かれたフォルダを見たことがあります。記事を保存していました。親子2代で(本紙に登場するのは)すばらしいことですね(笑)。

子どものころは和食と座布団で育った

――子どものころの生活について聞かせてください。

1日に6時間も練習するほどバイオリンに熱中していた幼少時代のタグチさん(写真提供:クミ・タグチさん)
1日に6時間も練習するほどバイオリンに熱中していた幼少時代のタグチさん(写真提供:クミ・タグチさん)
ボールペンを片手にポーズを取る田口明さん。この写真は日豪プレスの田口さんの記事にも掲載されていた(写真提供:クミ・タグチさん)
ボールペンを片手にポーズを取る田口明さん。この写真は日豪プレスの田口さんの記事にも掲載されていた(写真提供:クミ・タグチさん)

母と姉、私の3人は、私が8歳の時、NSW州の農村に引っ越しました。私はそれから18歳までは田舎暮らしだったんです。母は欧州系のオーストラリア人であるにもかかわらず、父と別れてからも食事や食器、服装など日本の生活様式を実践しました。

庭を馬や鶏が歩く田舎の一軒家で、私たちは母の手作りの唐揚げや餃子などを和食器で食べ、箸を使って育ったのです。玄関で靴を脱ぎ、廊下には暖簾が掛かっていました。居間では座布団に座り、本棚には母の日本の本が並んでいました。

例えば、今でも私にとって「ネギ」は「ネギ」。英語で「スプリング・オニオン」と言われても違和感があります。私たちには、日本の文化や習慣が普通だったのです。

5歳の時からバイオリンを習い、一時は練習に1日6時間も費やしていました。バイオリンが「好きだから」というより「才能があったから」という理由で、大学に進学する時も音楽を専攻しました。

しかし、大学1年を終えた時、職業として音楽家になることを諦めました。オーケストラの最前列で注目される奏者になりたかったのですが、それほどの才能と熱意がありませんでした。人に何かを伝える仕事に就きたいと考え、その後の大学の2年間は映像作品の制作に打ち込みました。具体的にジャーナリストを目指していたわけではないですが、「世界を駆け巡る特派員になりたい」という漠然とした希望はありました。

――母親は「父親の国の文化を子どもに継承させたい」と考えたのですか?

いいえ。彼女は純粋に日本式の生活様式が好きだったのです。日本は彼女の情熱の源であり、生活スタイルの全てでした。そのため、私たち姉妹は幼いころから自然に日本文化に慣れ親しんでいたのです。

日本人の父は、日本文化よりもむしろオーストラリアの歴史や文化に傾倒していました。逆に、オーストラリア人の母は日本文化を愛していました。一家で移住した時も、父がオーストラリアに住みたがり、母は日本に残りたかったようですね。

父の遺灰は豪州の土に

――戦争を体験した明さんは、母国にどんな思いを抱いていたのでしょうか?

戦争体験の反動からか、彼は日本で左翼的な論調で知られる新聞社に勤め、政府に批判的な記事を書いていました。しかし、必ずしも日本が嫌いだったわけではなく、生涯、オーストラリアの市民権を取得せず、日本国籍を保持し続けました。

哲学的、精神的な理由で、オーストラリアに住むことを選択したんだと思います。彼はこの国の自由な雰囲気が好きでした。退役軍人クラブに行って、対日戦の帰還兵の前で、戦時中の話をしたりしていました。日本にいた時は高くてプレーできなかったゴルフも楽しんでいました。

確かに、彼と日本との関係は難しいものがあったとは思います。父が戦争について初めて語ったのは、私が大人になってからのことでした。父は1943年、疎開先の山岳地帯で米軍機の空爆を受け、隣を歩いていた親友を亡くしました(注:当時、米軍機が東京などの大都市を空襲した後、余った爆弾を地方に投下したケースもあった)。その時、死んだのが親友ではなく父だったら、私はこの世に存在していません。

父は生前、遺言に「遺灰は日本に返さず、オーストラリアの地に埋めてくれ」と書き残しました。2年前、私は夫と娘と3人で、約7年ぶりに日本を旅行していた時、父の悲報を聞きました。父は83歳と高齢で、体調を崩していたので驚きませんでしたが、父が亡くなる数日前、日本を歩いていてふと「なぜ彼はこの国を去ることになったのだろう?」と考えることがありました。

私はこのすばらしい日本が大好きで、彼が日本を去った理由を理解できなかったからです。父の死以来、私は子どもの視点で父が生まれ育った国と向き合うようになりました。

Photo: ©Naoto Ijichi
Photo: ©Naoto Ijichi

日本人の感謝の気持ちを大切に

――自身の文化的アイデンティティーをどのように考えていますか? あなたは自分を誰だと捉えていますか?

以前は「私はオーストラリア人です。でも、父は日本人です」と答えていました。しかし、今では、私はオーストラリア人であると同時に日本人だと思っています。半分半分ではなく、両方だと。

むしろオーストラリアにいる時よりも、日本にいる時の方が幸せで、心地が良い。体もよりリラックスできます。例えば、日本人の礼儀正しさ、時間に正確なところ、社会の中での振る舞い、公共交通機関の中で携帯電話で話さない、歩きながら物を食べない……。多くの場合、日本の文化や習慣の方が、私にとっては普通で、筋が通っているのです。

子どもの時から、なぜかオーストラリアの文化にはなじめない部分がありました。もちろん、オーストラリアで育って慣れた部分はありますが、日本に行くと肩の荷を降ろして、よりリラックスできる気がするのです。年齢を重ねると共に、だんだんと私の日本人としての背景に誇りを持てるようになってきました。

――普段の生活で自分の中に日本人を感じるのは、どんな時ですか?

例えば、家で料理を出す時、良い食器を用意して、できる限り奇麗に盛り付けたいと考えます。人への感謝の気持ち、約束に絶対に遅れないことなども、私の中にある日本人的なところだと思っています。誰かにお世話になった時は、私は今でも手書きでお礼のハガキを出しています。お礼の品物を送ったり、手紙を送るのも非常に日本的な、とても良い習慣だと思っています。

オーストラリアを始め西洋では、成果をすぐに求める傾向がありますが、「時間を掛けて訓練して1つのことを達成する」といった日本人の美徳や、装飾を廃し、必要最低限な機能に絞り込む日本的な「ミニマリズム」にも非常に共感できます。

日本の人たちとお会いする際はいつも楽しいですし、日本語を聞くととても心が落ち着きます。表面的にはオージーですが、日常生活でも日本人のように振る舞うことが徐々に増えているのではないでしょうか。

私が幼いころ、母は父と別れた後も、父方の日本の祖父母のところによく連れていってくれました。私たち姉妹と祖父母が会うことが、非常に大切だと母は考えていたのでしょう。しかし、そうした幼少時代の経験の影響だけではありません。私の祖父母や父が育った国として、日本は私のアイデンティティーと力強く結び付いているのです。

履歴書に書ける実績が欲しかった

――今から21年前の1997年、ABC時事番組「セブン・サーティ・リポート」で制作アシスタント(日本のADに相当)としてキャリアをスタートさせました。新卒者が一斉採用される日本と違って、オーストラリアでは実務経験のない人が卒業後、いきなり専門職に就くのは難しい。どのようにして、報道の世界に足を踏み入れたのですか?

大学卒業後、半年間は楽器店で働いていましたが、「長く勤める仕事ではない。メディアで働きたい」という思いが募っていました。しかし、経験がないので、簡単ではありません。友人からABCで人を募集しているという話を聞き、応募してみました。すると、単純労働で給料が非常に安かったので、ほとんど応募する人がいなくて、採用されたというわけです。

仕事は、かかってきた電話に対応したり、ドライ・クリーニング店に服を取りに行ったりという雑用ばかりでしたが、それまで私がした仕事の中では一番楽しかったんです。その当時の同僚たちは今でも大切な友人です。

それからABCのウロンゴン支局で、少し原稿を書いたり、インタビューの方法を学びました。次に「トリプルJ」(公共FMラジオ局)に入りましたが、なかなかジャーナリストとして一人前になるのは難しかった。「経験がないから」と言われ、前に進めない。「だったら、その経験をどうやって積めばいいのか?」というジレンマに陥ったわけです。

少しでも経験を積もうと、トリプルJの仕事が終わったら家で数時間寝て、夜は地元の民放ラジオ局で無給のボランティアの仕事をする、という毎日でした。そこでは原稿を書いたり、ゲストのスケジュール作りをしたりと番組作りに携わることができました。少しでも履歴書に書く価値のある職歴を重ねようと、必死でした。

――その後、キャスターとしてのキャリアは、香港で開花することになります。地元テレビ局の英語放送でプロデューサーを経てキャスターを務め、NHKの海外向け放送「NHKワールド」でもキャスターや記者の仕事をこなしました。

香港が私にチャンスを与えてくれました。現地の放送業界では、英語で話せる人材が少なかったため、オーストラリアでは長くかかったであろう道のりを短縮することができました。何でも言われたことに「できます」と答えて、それを実際にやって見せることで、経験の浅さをカバーすることができたのです。新しい部分と伝統が入り混じった文化や食事、ライフスタイルも魅力的でした。香港では、娘も出産し、合計6年間を過ごすことになります。

戦争の精神障がい者支援に取り組む

2010年に香港から帰国後、24時間放送「ニュース24」のプロデューサーとして古巣のABCに復帰した。ニュースキャスターとしてもデビューを果たした。「ニュース24」の他、「SBSワールド・ニュース」、ABCニュースの特別取材班リポーターなどでみるみる頭角を現し、ABCが誇る看板キャスターの1人としてテレビでなじみの顔になった。

現在、宗教と倫理をテーマにしたABCの番組「コンパス」司会者を務める傍ら、貢献した国民をたたえる賞「オーストラリアン・オブ・ジ・イヤー」授賞式や、障がいを持つ傷痍軍人のスポーツ大会「インビクタス・ゲームズ」(18年にシドニーで開催)の司会もこなすなど、テレビの外にも活動の舞台を広げている。

――オーストラリアに帰国した際、何か新しいキャリアの目標を立てましたか?

「海外特派員になりたい」という希望をまだ持っていて、ABCの中でそうしたポジションを得ようと努力しましたが、多忙を極め、家族生活と両立することが難しくなってきました。

そうした中で、「シドニー・トゥ・ホバート・ヨット・レース」(シドニー・ホバート間1,170キロで最速を競う国際ヨット・レース。毎年12月26日に開幕)の参加艇にリポーターとして乗船しました。何日も荒れ狂う海の上でまともに睡眠も取れず、シャワーも浴びることのできない過酷な取材でしたが、ジャーナリストとして新しい試みに挑戦することができました。

――アナウンサーは、限られた時間内に、原稿を明瞭に読む技術が求められます。一方、ジャーナリストは、取材相手から問題の核心をいかに聞き出すことができるかが問われます。ニュースキャスターは、その両方のスキルがなければ務まりません。しかも、多くの場合が撮り直しがきかない生放送。その2つの異なるスキルをどうやって習得したのですか?

ニュースを読むスキルは、香港で身に着けました。初期のころの香港の映像は、恥ずかしくて見られたものではありません(笑)。でも、少しずつ改善していくことができました。

インタビューのスキルは、また別モノですね。(ニュース番組では)相手が誰であろうと、何か問題があるから取材しているわけで、核心を突く答えを引き出す「役者」として、「演技」の技術が求められます。役者としての私の仕事は、回答をはぐらかせる取材対象者から核心を聞き出すことにあります。

そのためには、質問に答えなければ、相手が首相であろうと何度もしつこく同じ質問を繰り返し、険悪な雰囲気になることもあります。でも、楽しいおしゃべりをするために、首相にインタビューしているわけではありません。自分を精神的に追い詰めて「役者」に徹しなければいけない時もあります。

私は賢くないので、リー・セールズさん(ABCの時事番組セブン・サーティ・リポートのキャスター)のように、事前によく練った質問で相手を手玉に取ることができません。「何が?」「いつ?」「なぜ?」という単純な短い質問をぶつけていくしかないんですよ(笑)。

――キャスターとしてのメインの仕事以外に、退役軍人のメンタル・ヘルスの問題にも取り組んでいます。

戦場での悲惨な体験がトラウマとなって、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患う人は、兵士だけではありません。戦場を取材したジャーナリストにも多いんです。友人のジャーナリストにも、戦争や大規模な自然災害などで精神的な問題を抱え、普通の生活に戻るのに苦労している人が多くいます。非常に強靭(きょうじん)な肉体を持つ人が、精神的に立ち直れなくなるケースがあります。そうした人たちを支援する方策を見つけ出したいと思っています。

――女性キャスターとして、オーストラリアのメディアの世界での男女平等や人種の問題についてどう考えていますか?

私はこれまで、女性であることを理由に不当な扱いを受けた経験はありません。ただ、最高経営責任者(CEO)や取締役会における女性の数は圧倒的に少ないのが現状です。女性のCEOや役員がもっと増えれば、全体への波及効果も大きいと思います。給与交渉においても男性のボスと対決することが多いので、男性はそれほど問題はないようですが、女性は精神的なストレスを感じるケースが非常に多いですね。

オーストラリアの民放テレビ局のニュース番組を見てください。キャスターは皆、髪の色がブロンドですよね。民放の番組でアジア人やインド人のバックグラウンドを持つキャスターを見たことがありますか? ゼロですよ。20年前と全く変わりません。一応、多文化社会ですが、一部の分野ではまだまだ遅れているのです。

5年後は本を書き野菜を育てる!?

――今興味を持っていることと、今後の人生の目標について教えてください。

現在はニュースから距離を置き、「コンパス」のような30分間のドキュメンタリー番組の制作を主に手掛けています。質問もより個人的なもので、物語に近いものがあります。1時間の枠内でさまざまなトピックを取り上げるニュースとは正反対で、テーマを1つに絞って深く掘り下げるタイプの仕事です。

メディア産業は今、ものすごい速度で変化しています。約10年前、こんなスマートフォンも「ネットフリックス」(インターネットの映像ストリーミング・サービス)も普及していませんでした。10年後、どんな世の中になっているか。想像もできません。ロボットがニュースを読む時代が来ているかもしれない。

シドニーのABCアルティモ・センターでインタビューに応じるタグチさん(Photo: ©Naoto Ijichi)
シドニーのABCアルティモ・センターでインタビューに応じるタグチさん(Photo: ©Naoto Ijichi)

テレビの仕事で言えば、今後は暗いニュースよりも、人びとを幸せにするようなエンターテインメント色の強い番組をもっと手掛けたい。20年間の私のキャリアは、シリアスなニュースや社会問題が中心でしたが、今後の20年間は世界中を飛び回りながら、もっと楽しいことに注力したいですね。

私は今の仕事が大好きですが、自分のアイデンティティーが、必ずしもテレビにあるとは考えていません。今後はもっと執筆の仕事を増やしていきたいです。現在、父の話を含めた私の人生についての本を書いているところです。

来年の予定は決まっていますが、再来年は何をしているか全く分かりません。5年後は、本を書きながら、庭で野菜を育てているかもしれませんね(笑)。

――ABCニュース(電子版)のコラム(2017年9月掲載)で、「私は二重国籍を持たない。私が議員に立候補しても(二重国籍者の立候補を禁止した)豪州憲法第44条に抵触しない」と、興味深いことを書いています。タグチさんはオーストラリア史上初の日系連邦議員または日系首相に一番近いところにいるでしょう。政界進出の可能性は何パーセントくらいありますか?

落胆させて申し訳ないですが、政界に進出したいとは思いません(笑)。私は権力争いを戦うことはできませんよ。もちろん、私は二重国籍を持たず、オーストラリアの市民権のみを持っていますから、法的に議員に立候補することはできます。

しかし、私はオーストラリアと日本の両方に忠誠心を持っていますから、倫理的にオーストラリアの議員になることはできません。子どもの時は「米国大統領になれば世界を変えることができる」と思ったこともありましたが、政治の駆け引きは嫌ですよ。可能性はゼロではありませんが、1パーセントくらいでしょうか(笑)。


クミ・タグチ(日本名:田口久美)◎1996年、NSW州のウロンゴン大学卒(文学修士=メディア/デザイン専攻)。97年、公共放送ABC時事番組「セブン・サーティ・リポート」制作アシスタントからキャリアをスタート。2005年に香港に渡り、英語ニュース番組のプロデューサー/キャスター。10年からシドニーで24時間ニュース・チャンネル「ABCニュース24」プロデューサー。同年、シドニーで公共放送SBSのニュース番組「SBSワールド・ニュース」キャスター/記者。11年~18年、「ABCニュース24」シニア・キャスター。16年~現在、宗教と倫理をテーマにしたABCの番組「コンパス」司会者。「オーストラリアン・オブ・ジ・イヤー」授賞式や、「インビクタス・ゲームズ」の司会も務める

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