新・豪リークス/豪でも追悼、慰霊の8月。カウラ、ダーウィン、木曜島

現在TBSのシドニー通信員を務める筆者が、オーストラリアの“ホット”な話題を独自の視点で分析する。あっと驚く“裏情報”や“暴露(リーク)情報”も!?

第30回 豪でも追悼、慰霊の8月。カウラ、ダーウィン、木曜島

広島、長崎への原爆投下、終戦の日……。お盆の時期と重なり、日本国内では戦争などで亡くなった人びとへの追悼と慰霊の雰囲気に包まれる8月。オーストラリア各地の日本人墓地などでもこの時期、慰霊行事などが行われる。そのうちの3つの場所を訪れ取材した。

木曜島の日本人墓地。真珠貝採取ダイバーとして従事し死亡するなどした750基以上の日本人の墓がある(8月15日筆者撮影)
木曜島の日本人墓地。真珠貝採取ダイバーとして従事し死亡するなどした750基以上の日本人の墓がある(8月15日筆者撮影)

◇「カウラ事件」から75年

シドニーの西約300キロの内陸部にあったカウラ戦争捕虜収容所。太平洋戦争中の1944年8月5日未明、1,100人を超える日本人捕虜が「生きて虜囚の辱めを受けず」とするかつての「戦陣訓」の影響から、収容所の周りに2重3重と張り巡らされた鉄条網を目がけていっせいに建物の外に飛び出した。赤い捕虜用の服を身にまとい、携えているのは食事に使うナイフやフォークなどの“武器”だけ。捕虜たちは当然、見張りのオーストラリア兵の静止の叫び声など聞くはずもなく、いっせいに放たれた機関銃の銃弾にバタバタとその場で倒れていった。運よく弾が外れた者は、抱えていた毛布を鉄条網に掛け、その上をよじ登って越えようと試みるが、そこにも銃弾の雨が容赦なく注がれた。

231人の日本人捕虜が命を落とし、オーストラリア人兵士4人も死亡した史上最大の戦争捕虜脱走事件と言われる「カウラ事件」から、今年で75年。現在、収容所跡地には、復元された監視塔が建ち、当時の様子を伝えるアナウンスが繰り返し流されている。広大な収容所跡を一望できる屋根付きの展望台に加え、事件発生から75年を機に当時の捕虜の生活を伝えるモニュメントも新たに設置された。

ここでは毎年、地元のカウラ市長をはじめ在オーストラリア日本大使ら日豪の関係者らが出席して慰霊式典が催され、続いて収容所跡地から2キロほど離れた日本人墓地でも法要と献花が行われる。当時捕虜としてカウラ第12捕虜収容所にいた元旧日本軍陸軍兵士の村上輝夫さんも、前回の70周年の式典以来5年ぶりに現地を訪れた。筆者は、式典後の8月26日に99歳の誕生日を迎えた村上さんに、式典前日の8月4日、じっくり話を伺う機会を得た。

「カウラ事件」を経験した元日本人捕虜の村上輝夫さん(99)と筆者(カウラ8月4日)
「カウラ事件」を経験した元日本人捕虜の村上輝夫さん(99)と筆者(カウラ8月4日)

「捕虜収容所の生活は極楽だった」と語る村上さん。食事は牛肉なども与えられ、余暇時間には野球をしたり、手製の花札などに仲間内で興じていたという。しかし、日本人収容者の中では「戦陣訓」に基づき、生きることでなく“死ぬこと”を目的とした脱走を決行しようとする機運が次第に高まり、ついにその日はやってきた。

村上さんは事件発生時、3つの鉄条網を越え、道路脇の側溝に身を潜め一夜を明かしたが、翌日、近くにやってきた日本語を話すオーストラリア兵に促されて投降した。

「あの日ね、ブロードウェイという所に側溝があるのですが、そこに隠れていた時、頭の上を銃弾がビュンビュンと飛んで行った。鉄条網を乗り越える時に多くの人が亡くなりました……」——村上輝夫さん

5日の式典後、日本人記者団の質問に村上さんは「戦争についてねぇ……もう戦争は嫌だから、ない方が良い」と答えた。

◇上越市長がダーウィン戦没者慰霊碑で献花

ダーウィンの戦没者慰霊碑に献花した上越市の村山秀幸市長(ダーウィン8月7日筆者撮影)
ダーウィンの戦没者慰霊碑に献花した上越市の村山秀幸市長(ダーウィン8月7日筆者撮影)

この「カウラ事件」75周年の式典には、新潟県上越市の村山秀幸市長も参列していた。かつて上越市(当時直江津町)には、太平洋戦争中に約230人のオーストラリア人兵士が収容され虐待を受けた直江津捕虜収容所がある。同市は戦後、同様に戦争捕虜収容所があったカウラ市と平和交流を続けている。

式典の2日後の8月7日、村山市長はカウラから3,500キロ離れた北部準州のダーウィンに移動。市内中心部にある戦没者慰霊碑に献花した。1942年年2月19日、旧日本軍はダーウィンを242機のゼロ戦などで2回に分けて大規模空襲し、230人以上が死亡した。

「ダーウィンの近くで捕虜となった方が、カウラの収容所に送られたとの話も聞きました。献花する機会を作って頂き感謝しています」——上越市村山市長

◇木曜島の日本人墓地慰霊式典

日本の終戦の日の8月15日、オーストラリア北部アラフラ海に浮かぶ島、木曜島(Thursday Island)で、潜水作業中に亡くなった日本人の慰霊式典が行われた。木曜島では19世紀後半から60年代初頭にかけ、和歌山県などから来た多くの日本人が真珠貝採取ダイバーとして従事し、潜水病や事故などで800人近くの日本人が死亡した。日本のお盆に合わせ、法要として毎年行われているこの式典には、地元の日系住民など200人以上が集まった。当時の潜水用のヘルメットが形取られた慰霊碑の前では、カウラの式典にも赴いていたオーストラリア人僧侶のウィルソン・哲雄氏が読経を行い、異国の地で命を落とした日本人ダイバーらを悼んだ。

木曜島に今も住む最後の真珠貝採取ダイバー・平川京三さん(84)写真中央(木曜島日本人墓地8月15日筆者撮影)
木曜島に今も住む最後の真珠貝採取ダイバー・平川京三さん(84)写真中央(木曜島日本人墓地8月15日筆者撮影)

式典には、戦後に真珠貝採取ダイバーとして沖縄から移住、現地の女性と結婚し今も木曜島に暮らす平川京三さん(84)が家族と共に参加した。1958年に沖縄から木曜島へ渡った162人の内の1人だった平川さんは、潜水作業中に一緒に沖縄からやってきた仲間の死に直面している。

「仲間が4人くらい死んださ。先輩たちは大変だったと思うよ」——平川京三さん

また、田中一成在ブリスベン日本総領事も参列。「日系の方々だけでなく、木曜島のコミュニティーの方々など皆さんにご協力を頂き、有難いと感じます」と述べた。

一方、現在木曜島の墓地には、750基以上の日本人の墓があり、このほど「日本人墓地修復プロジェクト」として、日本政府が6万8,500豪ドルを拠出。今後墓地にある450基の無名の墓に、サンスクリット語で「日本人無名墓所」書かれた表示柱を設置していくという。

カウラ、ダーウィン、木曜島。このように、日本人はもとより、オーストラリア人にもあまり知られていない日本と長く深い絆を持つ場所がオーストラリアにはある。その時代に生き、実際に経験をされた人びとが高齢化する中、いかに事実を伝えていくかが重要だ。


飯島浩樹(いいじま・ひろき)
TBSシドニー通信員、FCA-豪・南太平洋外国記者協会会長、豪州かりゆし会会長、やまなし大使など。2019年5月、小説『奇跡の島~木曜島物語』を出版

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