マーベラス・メルボルン「移民の激増」

MARVELLOUS MELBOURNE マーベラス・メルボルン

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第8回 移民の激増

世界一の移民受入れ桟橋、ステーション・ピア
世界一の移民受入れ桟橋、ステーション・ピア

ゴールド・ラッシュ開始翌年になると、一獲千金を夢見る金鉱夫や家族が、欧米や中国を中心としたアジアなどから大量にメルボルンに押し寄せた。1851年のメルボルンの人口は3万人弱であったが、53年には13万人に達しビクトリア全体ではその3倍の40万人に達した。静かな植民地が突然、人口だけはロンドンに次ぐ大都市並みとなった。

メルボルン南のサンドリッジ海岸には毎日、数隻の帆船が到着しホブソン湾には多くの船が滞船した。当時の帆船の乗員は100人ほどだったので、年間10万人を輸送するには毎日3隻から多い日には10隻もの船が到着したことになる。当時のメルボルンには外洋帆船用桟橋や岸壁も無かっため、小舟で荷降ろしが行われ、転覆する船が出るなど大混乱となった。

サンドリッジ海岸からメルボルン市内までは荷物を持った移民たちがぞろぞろと歩いて行った。通路であるエメラルド・ヒル(現サウス・メルボルン)には移民たちのテント・ハウスが立ち並んだ。チャイナタウンが成立したのもこの頃で、金鉱夫としてやってきた中国人の旅籠屋(はたごや)や中華料理店として、また金鉱山で使用する物資を販売する商店として活況を呈した。

一方で、当時は多数の移民たちに対しての病院、医者、薬の数は圧倒的に少ない状況で、多くの病人は手当てもされずに死んでいったのだった。

世界中からの移民記念碑があるサンドリッジ橋
世界中からの移民記念碑があるサンドリッジ橋
豪州最初の鉄道路線のフリンダース駅
豪州最初の鉄道路線のフリンダース駅

そこで、植民地政府はこの状況の打開に取り掛かった。サンドリッジ海岸には豪州初の本格的外航船用の桟橋、ステーション・ピア桟橋が54年に建設された。その後100年以上の間、世界中からの移民を受け入れ、豪州の移民受け入れの最高記録を持っている。世界でもこのような桟橋は例が無い。増え続ける移民をメルボルン市内へ輸送するためにホブソン湾鉄道会社が設立され、豪州最初の鉄道路線がテルミナス駅(現フリンダース駅)とサンドリッジ港駅(現ポート・メルボルン駅)を結んで54年に開設された。

最新鋭の蒸気機関車をロンドンに発注したが、完成が1年ほど遅れたために、最初の数列車はメルボルンで製造されたものであった。

翌年到着した4台の蒸気機関車は、それぞれ「メルボルン」「サンドリッジ」「ビクトリア」「ヤラ」と名付けられ、30分ごとに出発して両駅間を10分で結んだ。テルミナス駅に到達するにはヤラ川を越える必要があり、難工事の末にサンドリッジ橋が架橋された。サンドリッジ橋は、現在では歩行者用の観光橋となっているが、そこには世界中からメルボルンへやって来た移民の歴史を記念するためのモニュメントが設置されている。

世界史上でもまれな規模のゴールド・ラッシュと急増する移民が、その後に起こるマーベラス・メルボルンの2つの要因であった。



文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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