マーベラス・メルボルン「大農場主の出現とメルボルン・カップ」

MARVELLOUS MELBOURNE マーベラス・メルボルン

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第11回 大農場主の出現とメルボルン・カップ

ニューマーケットにある家畜専用橋
ニューマーケットにある家畜専用橋

1850年代、ゴールド・ラッシュによってバララットやベンディゴなどビクトリア北部地区は金鉱山で急速に発展したが、ジーロンやウェリビー、ウィリアムズタウンなどビクトリア西部地区は農産物の供給基地として発展した。

牛、馬、羊、豚などの家畜がイギリスから移民と共にもたらされた。オーストラリアの気候に合い天敵もいなかったため牧畜により大繁殖、1850年ごろ家畜の数は既に1,000万頭を超えていた。地方都市からメルボルンへの主要道路は、牛や羊の群れを1人のカウボーイと牧羊犬数匹が追い込むために幅広く作られていた。バラライン半島や西部地区などは道路が未整備であり、帆船や蒸気船の定期航路が開設され都心に近い港まで船で搬送されてきた。

当時、1人当たりの肉の年間消費量は、イギリス49キロ、アメリカ68キロに対してメルボルン123キロと他を圧倒している。123キロは350グラムのステーキを毎日食べる計算である。貧富の差が激しいイギリスでは貧困者はほとんど肉を食べられず、肉をたらふく食べられることもオーストラリア移住の大きな魅力であった。

ビクトリア西部の窓口として栄えたジーロン
ビクトリア西部の窓口として栄えたジーロン
ウェリビーにある大農園主の大邸宅
ウェリビーにある大農園主の大邸宅
1861年にフレミントンで始まったメルボルン・カップ
1861年にフレミントンで始まったメルボルン・カップ

メルボルン西北のフレミントン、ニューマーケット家畜市場に牛や羊、豚などの家畜が集められた。マリビノン川を挟んだフッツクレイにはウィリアムズ・アングリスの食肉工場なども出来て、大量の食肉が至近のビクトリア・マーケットへ供給されるようになった。

メルボルンの郊外には数万頭の家畜を飼育する大牧場が生まれた。農業資本が蓄積して、牧場主は豪邸を建設しメルボルン市内のビルを所有し、ビクトリア植民地議会でも主要な地位を占めるようになった。鉱業資本家と共に農業資本家も生まれ、大量の資金がメルボルンに蓄積し、マーベラス・メルボルン発展の大きな要素となった。

1860年代にはメルボルンの人口はシドニーを抜いてオーストラリア第1の都市となり、英連邦でもロンドンに次ぐ第2の都市となった。

ニューマーケットがあるフレミントンは競馬のメルボルン・カップが毎年開催される場所である。毎年9月にロイヤル・メルボルン・ショーというお祭りがあるが、ビクトリア農業連盟が主催する農業祭で1848年から行われている。

競馬はイギリス人の文化に深く根ざしている。オーストラリアの片田舎の町にも競馬場があるが、競走馬も早い時期にメルボルンに輸入されている。1840年には早くもフレミントンで競馬が開かれている。第1回のメルボルン・カップは、1861年11月7日にフレミントン競馬場で開催された。11月最初の火曜日に定められたのは1875年からである。



文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

新着記事

新着記事をもっと見る

NICHIGO CHANNEL

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る