和田アキ子 45年を振り返る

新年特別インタビュー

45周年を超えて

 和田アキ子さん

 1968年10月に『星空の孤独』をリリースして歌手としてデビューした和田アキ子さんは、2012年に歌手生活45周年を迎えた。2013年には「45周年記念コンサート」を日本各地で開き、大好評を得た。大晦日の紅白歌合戦出場が正式に決まった11月の最終日、レギュラーのラジオ番組を終えた午後のニッポン放送の会議室で、インタビューの時間をいただいた。

デビュー前後のころ

デビュー前は不良で、喧嘩ばかりしていたという武勇伝がある。そのことをまず聞いてみた。

「すべて本当です(笑)。盗みやクスリはしなかったんだけど、喧嘩ばかりしていた不良中の不良でした(笑)。身体がデカイので、通りすがりに『ウワー、デカ!』とやじられる。それで、何だよって鉄拳が飛び交うことになるんです。強かったですよ(笑)。ただ、『女番長』というのは東京に出てからマスコミが付けたものですけど」

和田さんは歌手になりたいと思ったことはなかったそうだ。

「子どもが大好きだったので、保母さん、今で言う保育士になりたかった。でも親が猛反対。『アカン、あんたはすぐ手が出るから絶対にダメ』と言われて。

1968年10月25日に発売されたデビュー・シングル『星空の孤独』

1969年4月25日に発売された2枚目のシングル『どしゃぶりの雨の中で』はオリコン・チャートで最高19位を記録するヒットとなり、和田アキ子さんの出世作となった

『笑って許して』は1970年3月25日に発売された4枚目のシングル。約2 0万枚を売り上げ、オリコン・チャートで当時の自己最高記録となる11位を記録。また同曲で「第21回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした

1972年3月25日に発売された11枚目のシングル『あの鐘を鳴らすのはあなた』。第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した和田アキ子さんの代表作

『古い日記』は1974年2月25日に発売された18枚目のシングル。「あの頃は ハッ!」というものまねで有名だが、随所に入る「ハッ!」という掛け声は、スティービー・ワンダーを意識したもの

中学に途中入学した時(そこは幼稚園から英語教育を取り入れていた学校)、『ハウ・ドゥー・ユー・ドゥー』という英語を初めて聞いて、これは何やろという感じ。これはアカン、ハッタリをかまさなアカンと思い、レコード店へ行って洋楽のレコードを買って覚えて、それを学校で歌っていたらみんなビックリしました。その時のレコードが、レイ・チャールズの『愛さずにはいられない』(その時まで黒人という存在も知らなかったそうだが、後年にレイ・チャールズとは親交が生まれ、“レイちゃん”と呼んで交流が続いた)。それで、“洋楽を聞く=雰囲気が不良”になりかかるんです(笑)。

ジャズ喫茶やダンスホールへ行くと、そこで歌ってるのがあんまりうまくなかった。『それなら歌ってみな、キーは?』と言われて、キーって何ですかという感じで、全く何も知らなかった。その後、気に入ってもらってレギュラーで歌っている時に、ホリプロの創始者、堀威夫社長(当時)にスカウトされデビューしたんです。

デビュー曲はヒットしなくて、とてもショックでした。それから、その年の新人賞が取れなかったのもとても悔しかった。『大人の歌手、世界に通用するシンガーに育てたい』と会社も力をかけてくれ、絶対に売れると太鼓判を押してくれてもいたので…。いつも『記録に残る歌より、記憶に残る歌を歌いたい』と言ってるんですが、新人賞は欲しかった。一生に1度しかチャンスがないじゃないですか、新人賞は」

デビュー曲はヒットしなかったが、次の『どしゃぶりの雨の中で』がヒット。その後、4枚目となるシングル『笑って許して』が大ヒットし、その曲で1970年の『第21回NHK紅白歌合戦』にも初出場。トントン拍子のキャリアに見えるが、和田さんにとってのデビューの年は、“歌手として、もたない”と思ったほど、悔しさと苦渋の年でもあったようだ。

現在もホリプロに所属しているので、会社のことを聞いてみた。「ホリプロとは10代から60代まで6世代にわたって付き合っていて、これだけ長くお世話になっているタレントも珍しいのでは。

昔は辞めてやる辞めないでくれなんて押し問答もありましたが、今は『辞めてくれって言われても辞めないぞ』と言ってます。ホリプロでなければ今の“和田アキ子”はいないと思いますね」

デビュー当時、同業者の女性歌手からイジメがあったのは有名な話だ。「当時、楽屋が個室じゃなかったので、女性歌手は全員が1室を共有するわけです。私が一番新人だったのでイジメられましたね。『今日は男がいるから着替えができないわ』とか、化粧品などを目の前で足蹴にされたり、当時黒のドレスを1着しか持ってなかったのですが、先輩の歌手が『私が黒のドレスを着るので、あなたは着ないで』と怒られたり。関西弁が生意気と言われたり、お茶をひっかけられたり、それから私が大事にしていた白いバスケット・シューズに黒いマジックでバカと書かれたり、いろいろありましたよ」

「今紅白にも出て第一線に残っているのは和田さんくらい。当時のそういう人とどこかで遭遇した時、『10倍返しだ!』とイジメ返してやろうとは思いませんか」と聞くと、

「(笑)。私が先輩という立場になった時、こういうイジメだけは絶対にすまいと心に誓いました」

紅白歌合戦

紅白は連続出場と思っていたのだが、意外にも1979年に不出場になり、それ以来8年間続いていた。

「そうなんです。皆さんそう思ってらっしゃる人が多いんですが、落ちてるんですよ。落ちた時はそれはもう大ショックでした。今でもその時のことはよく覚えています。喧嘩もトラブルも起こしてないのに(笑)、何でという感じ。

それで、もうないものと思っていましたし、“もう絶対に出ない”とも思っていました。で、暮れにはいつも外国へ行っていました。それで8年後に、マネジャーから紅白の話が来ましたと言われ、“もうカンベンしてよ”という気持ち。“どうしたの今さら、もういいよ”と思っていたら、マネジャーに言われたんです。『アッコさん、これは断る理由はないですよ』って。その言葉がなるほどと思い気に入って、カムバックを果たしたんです」

紅白といえば、1998年に大トリでマイクなしで『今あなたにうたいたい』を歌い、感動のステージとなったのを外すことはできない。

「これは友達の加藤登紀子さんから25周年のお祝いにプレゼントされた曲なんです。当時は、オペラから民謡までいろいろな音楽を聞いていたんですが、オペラ歌手の発声法を採用すれば、マイクなしでシアターの隅々にまで声が届くと分かり、自分のコンサートではファンの方への感謝の気持ちを込めていつもやっていたんです。それをNHKの方が観ていて、ぜひやってほしいと頼まれたんです。

 ただ、テレビで電波を通すことになると、いろいろな規制があって無理ですと渋っていたんですよ。ものすごいパワーが必要で、10曲分くらいの力がいりますから。

紅白に対する現在のスタンス?出させていただくことは、とても名誉なことでありがたいと思っていますが、すべてではないです。出ると決まればもちろんベストを尽くします」

46年を超えるキャリア戦

キャリアの中で1つのハイライトだと思われる、ニューヨークのアポロ・シアターでショーを持ったことを聞いてみた。

「30周年記念では、レイちゃんがわざわざ私のために日本へ駆けつけてくれたんです。その時、40周年にも絶対来てねという話になり、そうだアポロでのショーもありだよねという会話があって…。ただ、今でもアポロでのショーをなぜ実現できたのかは分からない。あそこは黒人歌手の殿堂で、白人はダメだし、アジア人もダメですから。

選択肢として、アポロかカーネギーかというのがあったんですが、カーネギーはこれまで日本人歌手もやってますし、アポロで初めての日本人のショーをやりたいという強い希望がありました。

感動の一夜というより、“感動という言葉しかないのか”というのが実感でしたね。5キロも痩せました。アポロに出場が決まって、禁煙し、ボイス・トレーニングもスタートし、歌に対して、いい時にいいことをやり出したなという感じがします。『R&Bの女王』というキャッチでデビューしたんですが、やはり黒人の歌が、共鳴できるというか、抵抗なく入っていけるという感じがしますね」

和田さんは、いわゆる芸能界の大御所(森繁久彌、美空ひばり、勝新太郎、石原裕次郎、森光子など)からとても可愛がれてきた。

「私はお酒もよく飲むし、平気で酔っぱらうし、たぶん大先輩から見ると非常に面白いキャラだったんでしょうね。皆素敵な人で、ご一緒の時間はとても楽しかったですね。

最近亡くなられた千代っち(島倉千代子さん)もそうです。私のことをアッコ先輩って呼ぶんです。お友達になってほしいとおっしゃったんだけれど、自分より先輩から先輩なんて呼ばれるのは嫌だし『それじゃ、千代っち、バカやろうって怒鳴ってごらん』って言うと、『そんなこと言えません』というので、『じゃ友達になれない』って言うと、『じゃ言います。バカやろう』って蚊の鳴くような声で言ってました(笑)。とても可愛い人でしたね」

昔は大柄だったことがとても嫌だったそうだが、今は大きなプラスだと思っている。

「今、ドレスを着て歌う人は少ないんですよ。でも、(私みたいに)手足が長いとドレス姿がステージでピタリと決まるんです(笑)。

これまでで一番嬉しかったこと?よく聞かれる質問ですが、今歌っていられることです。一番悔しかったことは、それは遠い昔に忘れちゃいました(笑)。

芸能界はひと言で言うと虚飾の世界。でも自分というものをちゃんと持っていれば、こんないい世界はないと思います。70歳ぐらいになってまだ声さえ出ていれば、お腹が出ていようとお尻が垂れていようと、顔がしわくちゃでも、真っ赤なマニキュアをしてブルースを歌いたいというのが私の夢です。日本では思いきり高いお金で、海外では小さいクラブで。向こうでは一流のアーティストが、小さいクラブで前座的によく歌ってるんですよ」

大好きなゴールドコースト

和田さんは1997年に日豪親善のオパール・クイーンに選ばれ、大々的に発表される予定だったのだが、同時期にダイアナ妃が急死したため、あまり話題にならなかったとのこと。また2006年にはゴールドコーストの親善大使に任命されるなど、オーストラリアとの関係は深い。

「長年の友達がゴールドコーストに住んでいて、とてもいい所だから1度いらっしゃいよと勧められていたんです。それで行ってみたらすごく気に入って、別荘を買ったんです(ただしこの別荘は売却されており、現在は毎年の来豪は変わらないが、ホテルにステイしている)。海が大好きで、キャプテン・クックの船が座礁したので有名な場所の海は最高。近くにフライドチキンのショップがあって、そこでチキンを買って海を見ながら食べるのが最高なんです(笑)。

ゴールドコーストはリフレッシュの時間ですね。ゴルフをしたり、コンラッドでギャンブルをしたり。オーストラリア人はおっとりとした印象がありますが、芯は強い。自分をちゃんと持っていて、その上で他人への思いやりがある。一方で、ほっといてくれるというか自由にさせてくれる。そういうところが大好きですね」

毎年来豪しているが、ゴールドコーストだけで、シドニーへは1度も行ったことがないそうだ。

「歌うということは和田さんにとってどういう意味を持ちますか」という最後の質問に、「私を表現できる唯一のもの。私のすべて、命です。歌と水がなければ死んじゃいます(笑)」と即答。そして、本紙読者にメッセージをいただいた。

「オーストラリア人の良いところを取り入れながら、日本人の良いところを忘れないでくださいね。そして、ゴールドコーストで私を見かけたら、日豪プレスの記事を読んだよって、声をかけてください」

インタビューが終わった後、用意していた45周年記念にリリースされたCDへのサインと握手をお願いした。握手の際、和田さんは「大きい手でしょう」と笑った。確かに指も長く大きな手だが、46年にわたって、歌い続けるためにマイクを握った手は、アーティストの手という印象を持った。

(本紙発行人 坂井健二)

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