海外に移住するという選択―原発問題を考える㉗

ルポ:シリーズ・原発問題を考える㉗

海外に移住するという選択

世界有数のウラン輸出国として原発産業を支えつつ、自国内には原子力発電所を持たない国オーストラリア。被ばく国であるにもかかわらず、狭い国土に世界第3位の原発数を誇る原発大国・日本。原発を巡る両国のねじれた構造を、オーストラリアに根を張る日系媒体が取り上げないのはそれこそいびつだ。ルポ・シリーズ「原発問題を考える」では、原発を取り巻くさまざまな状況を記者の視点からまとめていく。 取材・文=馬場一哉(編集部)

東日本大震災発生から半年後、2011年10月31日に記者は日本を発ち、翌11月1日にオーストラリアの地に足を踏み入れた。それからさらに1年が経過し、日豪プレスでの編集記者業務にも慣れてきた12年12月、かねてよりやりたいと考えていた本連載を開始(このあたりの経緯、当時の心境に関しては連載初期のバックナンバーを参照いただきたい)。それ以来よく質問されるようになったのが「原発事故をきっかけに移住を決意されたのですか?」ということだ。

オーストラリアへの移住理由は友人とともにバックパッカーとして大陸を回った18年前までさかのぼるが(詳細は今回の本筋と関係ないので割愛)、具体的な計画は08年ごろに立て始めた。そういった経緯であるため移住と原発事故は事実としては無関係なのだが、では日本を離れる際に原発事故による放射性物質の飛散の影響下から離れることになることを頭の中で全く考えなかったかといえば素直にイエスとは言えない。

当時、放射性物質の飛散は記者が住んでいた東京にも及んでおりホットスポットの発表もたびたび行われていた記憶がある。そんな中で安全だ、大丈夫だという日本政府の発表を素直に信じていたかと言えば、疑わしいというのが正直な気持ちであった。実態がよく分からないことに加え、それぞれ大変な状況に置かれている家族や知人らを置いて日本を離れることには後ろ髪を引かれる思いがあった。そんな中、移住計画自体を先送りにしようかという考えが頭をかすめたこともあったが、以前、苦言を呈した通り、それは過剰な自粛だと判断し予定通り渡豪を決めたのである。

連載開始よりすでに約3年が経とうとしている。諸々の事情で連載は不定期となっているがそれでもこの3年間、多くの情報源を当たり、また数多くの人々と話をしてきた。そんな中、オーストラリアへと移住を決めた日本人の中には実は原発事故をきっかけに移住を決意した人が少なくないことに気付いた。そこで今回から数回に渡り実際に海外への移住を選択した人々の声をお届けしていこうと思う。

チェルノブイリから7年後に現れた甲状腺の異常

現在、シドニーで夫婦2人で暮らしている尾賀元芳明さん(仮名)の妻・ナディアさん(仮名)はかつてチェルノブイリ原発事故で被曝した経験を持ち、今でも甲状腺の異常との付き合いを余儀なくされているという。2人は日本で出会い結婚し、東日本大震災当時は神奈川県に住んでいたそうだ。辛い記憶を思い起こさせる無礼を詫びながら尾賀元夫妻に話を聞くことにした。

──奥様はかつてチェルノブイリで被曝したと聞いています。どのような状況で被曝し、その後どのような対応が政府からあったかなど、お話し願えればと思います。

定期的に必要な甲状腺の血液検査の結果を見るナディアさん
定期的に必要な甲状腺の血液検査の結果を見るナディアさん

ナディア「当時、私は10代中盤でした。事故当日は晴れていたのに雨が降ったので驚きました。雨の色が黄色かった記憶があります。晴れている中での雨だったのでたくさんの人が雨に降られ、私もその1人でした。いわゆる『フォールアウト(放射能の雨)』です。何日か後、政府から事故の事実が知らされ、学校では薬が配られみんなその場で飲みました。ヨウ素剤です。現在では、この投与のタイミングは遅すぎだと言われています。それから約7年後、私に甲状腺の異常が見つかりました。私の世代の多くの人々は甲状腺に異常を持っています。妊娠8カ月目だった友人はチェルノブイリの1カ月後に出産、その子どもは心臓病を含むたくさんの病気を持っていて1カ月後に亡くなりました。

政府からは牛乳、ホウレンソウやレタスなどの葉野菜を食べないこと、外の砂場や芝生で遊ばないこと、ピクニックしないこと、外で物を干さないようになどの勧告が出たことを覚えています。当時、ロシアは事件を隠そうとしました。私はそれが社会主義体制と深く関わっていると考えていました。でも今回、福島の事故を経験した後、事故への対応や情報の出し方を見て考えが少し変わりました。避難のための組織的なバスの手配や食べてはいけないものの告知、避難地域の設定など、むしろソ連の方が対応のスピードが早く的確だったものも部分的にあったようです」

──事故への対応などに関しては政治体制などイデオロギーはあまり関係ないと感じているのですね。お2人は3.11当時はどこで過ごしておられたのですか。

芳明「神奈川県におりました。地震の時はついに来たかと思いました。以前から関東地方での巨大地震の可能性についてはよく話題になっていて、そんな中あの地震は特別に大きくまた長かったからです。原発事故後はニュースの内容が海外発のものと日本発のもので内容に大きな隔たりがあったことをはっきり覚えています。海外からの情報には科学的なアプローチが多く、また最悪のシナリオ(メルトダウン)までを想定したものが多く見られたのに比べ、国内のニュースはただちに健康に深刻な影響はないという会見や、専門家が原子炉の構造や数値などを繰り返し説明する報道がメイン。なぜ、そんなに違うのかと考えてしまいました」

政府・東電・メディアからは知り得ぬ事実

──奥様のこともあり意を決して日本を離れ、海外移住を決意されたのだと思いますが、それも事故から3年経過したタイミングだったと聞いております。そのタイミングで移住を決意したのはどういった理由だったのでしょうか。事故後からここに至るまでの出来事や心境の変化などを教えてください。

芳明「大地震翌日の3月12日、海外の友人からのメールと停電回復後のニュースで、私たちは原発事故のことを知りました。近所の人々は普段どおり犬の散歩や洗濯物を干したりしていましたが、私たちは家の窓を閉め切り、海外のサイトや友人とのメールから情報を収集し始めました。妻の甲状腺の主治医は『もし、メルトダウンしたら放射性ヨウ素を避けるためにすぐに避難したほうが望ましい』と言っていました。日本では政府を含めメディアはメルトダウンの可能性は低いと繰り返し報道していましたが、欧米のメディアや友人からはメルトダウンの可能性が高いとの情報がひっきりなしに入ります。結局日本は数カ月後にメルトダウンの事実を認めましたが……。

フランス、イギリス、ドイツなどは早々に国民に向かって避難勧告と無料の航空機を手配、妻の国の大使館からもホームページを通じ避難勧告が伝えられました。13日に祖母の家がある山陰へ9日間避難し、その後ヨーロッパへ行き1カ月間過ごしました。そして海外から日本での事故の推移を見ながら2人で考えた末、関西エリアへの移住を決断したのです。その後は原発に関する多くの講演会に参加しました。

そんな中アーニー・ガンダーセン氏(編注:スリーマイル島原子炉の元技術者)やヘレン・カルディコット氏(編注:オーストラリアの反原発運動家で医師)、ジャーナリストの森田敏也氏や琉球大学の矢ヶ崎克馬氏(編注:低線量汚染の食物による内部被曝についての著者)、アイリーン・スミス氏(編注:水俣の報道で著名な写真家ユージン・スミス元夫人)など多くの人々と知り合いました。また日本の四国・祝島での有機農家の反原発運動や北欧でのオルタナティブな発電への取り組み、スウェーデンの使用済み核燃料の貯蔵などに関する映画会、瓦礫焼却に関する地方時自体の説明会などにも参加し、情報の収集に努めました。

そこでは政府や東電の発表、あるいはメディアからは知り得ない事実を知ることができたし、なぜ知り得ないのかも分かりました。そこで再度海外移住を決意したわけです。そしてシドニー、メルボルン、オークランドへのリサーチ旅行を経て、最終的にシドニーへの移住を決意したのです……」(次号に続く)

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