新・豪リークス/「もう1つの“パール・ハーバー” ダーウィン空襲から75年」

新・豪リークス

現在TBSのシドニー通信員を務める筆者が、オーストラリアの“ホット”な話題を独自の視点で分析する。あっと驚く“裏情報”や“暴露(リーク)情報”も!?

第14回「もう1つの“パール・ハーバー” ダーウィン空襲から75年」

旧日本軍のダーウィン空襲開始から75年の式典が2月19日、5,000人以上が参加して行われた。多くの犠牲者を出し、もう1つの“真珠湾攻撃”とも呼ばれるこの空襲には、日豪両国でこれまであまり知られてこなかったさまざまな歴史があった。

◇“封印”された知られざる歴史

日米開戦の口火を切ったハワイのパール・ハーバー(真珠湾)への攻撃は、あまりにも有名だが、そのわずか10週間後に起きた旧日本軍によるオーストラリア北部ダーウィンへの大規模な空襲については、これまで多くは語られてこなかった。

1942年2月19日の午前9時58分、ダーウィン上空に轟音が鳴り響き、ティモール海洋上の航空母艦から飛び立った188機の零式艦上戦闘機などが、おびただしい数の爆弾を投下した。

2月19日、ダーウィン空襲75周年追悼式典で献花するターンブル首相(写真中央、筆者撮影)
2月19日、ダーウィン空襲75周年追悼式典で献花するターンブル首相(写真中央、筆者撮影)

その結果、ダーウィン港に停泊していた8隻の船が瞬く間に炎上し沈没。湾岸の石油タンクからは黒煙が上がり、当時、マレー半島などに向かう連合国軍の重要な軍事拠点だったダーウィンの軍関連施設はもとより、郵便局や民家なども爆撃を受けた。

攻撃の第一陣が帰還してほどなくした11時45分、今度は航空母艦からではなく陸上の基地から発進した爆撃機54機が飛来。地上では、カーキ色のランニング・シャツ姿の兵士たちが懸命に対空砲などで応戦したが、気温30度を超える蒸し暑い亜熱帯気候の中、弾薬も十分ではなく、迅速かつ正確に標的を攻撃してくる「ゼロ戦」の群れに、なす術もなかった。

真珠湾攻撃を凌ぐ爆弾量を投入したその日の2回の空襲により、民間人を含む少なくとも243人が死亡、約400人が負傷した。その後日本軍は、1943年までに60回以上ダーウィンを攻撃、他に西オーストラリア州のブルームやクイーンズランド州のタウンズビルなどにも空襲を行っている。

ヨーロッパ人の入植以来、史上初めてにして最大の外国勢力によるこの本土空襲について、オーストラリア国民でさえも詳しく知る人は少ない。今でこそ2月19日を「国民の休日」にすべきだとの声も上がるほどだが、慰霊碑が設置されているダーウィン市内の公園で大規模な式典が行われるようになったのは、5年前の70周年式典のころからだという。空襲後、住民だけでなく兵士の多くがダーウィンから逃げ出してしまい、あえて政府も国民に事実を伝えなかったことから、まさに「恥ずべき歴史」として“封印”されてしまったのだ。

◇忘れ去られた人びと

また、ダーウィンの空襲により多くの民間人も巻き込まれた歴史的事実もあまり知られていない。

生後3カ月の時に空襲に遭ったドロシー・フォックスさん(75歳)の父は、当時ダーウィン港で、大量の爆薬を積んで港に停泊していた貨物船「ネプチュナ号」に港湾労働者として乗船していて亡くなった。先住民アボリジニーの母とフィリピン出身の父を持つ彼女は、空襲の後、家族から引き離されアデレードの修道院に送られた。

空襲当時の様子を説明するドロシー・フォックスさん(筆者撮影)
空襲当時の様子を説明するドロシー・フォックスさん(筆者撮影)

修道院での生活を始めた当初、周りからはまるで“異星人”のように扱われ、全身をジロジロ見られたり、褐色の肌を珍しそうに触られるなどしたが、その後しっかりした教育を得る機会を得たドロシーさんは、ダーウィンに戻り市会議員にまでなる。終戦後、しばらくはダーウィンの反日感情は根強く残り、日本人が歩いた側の道路は意図的に避けて通ったり、毎年2月19日が来ると、ダーウィンの街では日本人が卵を投げつけられることもあったと話すドロシーさん。「今はもう日本人にわだかまりは全く持っていないわ。日本との文化交流も多いし、お互い仲良くやっているもの」と笑顔で語ってくれた彼女だが、1つ心配していることがあるという。

「アメリカのトランプ新政権誕生や世界の極右政治家などの台頭で、再びダーウィンが昔のように他国の思惑に翻弄されなければいいんだけどね……」

◇もう1つの悲しい出来事

一方、ダーウィン空襲が始まる約1カ月前の1月20日、旧日本海軍の潜水艦「伊124」が、ダーウィン沖で乗員80人と共に沈没するという惨事が起きた。ダーウィン港を包囲する目的で、共に潜水隊を編成する「伊123」とダーウィン沖約80キロに潜行していた「伊124」は、アメリカの巡洋艦などに発見された後、オーストラリアの掃海艇から放たれた爆雷が司令塔付近に命中、爆発を起こし海の底へと沈んでいった。

この悲劇も「ダーウィン空襲」と同様、長く人びとの記憶から忘れ去られていたが、このほど地元の交流団体「北部準州豪日協会」と、「伊124」に関する著書がある歴史家のトム・ルイス氏らの呼びかけにより、今も船体が沈む海を見渡す海岸に慰霊碑を設置することになった。

2月17日、その慰霊碑に取り付ける銘板の除幕式がダーウィン市の議事堂内で行われ、日本からも当時2等機関士だった大滝良平さんの孫の高志さんと、井上寅一兵曹長の甥(おい)の千葉七郎さんら乗組員の遺族も駆けつけた。また、当時21歳でダーウィン空襲に遭遇した元オーストラリア空軍兵士のブライアン・ウィンスピアさん(96歳)も招待され、日本の遺族らと対面した。「日本は美しい車を作るから大好きだよ。もう全てが癒されたね」と、96歳とは思えない茶目っ気のある笑顔を浮かべながらウィンスピアさんは語ってくれた。

◇75年の時を経て

この慰霊碑の銘板除幕式の行われた同じ日、州議会議事堂からほど近いダーウィン市役所内では、第2次世界大戦前の日豪交流の歴史を物語る記念碑の除幕式も行われていた。

市関係者や現地在住日本人らの前で披露されたのは、1936年に日本の大型練習帆船「海王丸」が、ダーウィン港に寄港した際に建てられた石碑で、これまで無縁仏のように市内の中国系の仏教寺に放置されていたものを回収し、ガラス・ケースに入れ市役所内に展示することになったのだ。中国系のカトリーナ・フォン・リム市長は「今では日本とオーストラリアは強い絆で結ばれています」と、除幕式でスピーチした。

2017年2月19日、5,000人を超える市民らが集まって行われたダーウィン空襲75年の式典。午前9時58分に鳴らされた空襲警報のサイレンと共に、空にはジェット機が轟音を立てて通り過ぎ、当時の姿に扮した豪軍兵士が、高射砲や機関銃を撃つなどして当時の様子を再現した。その後ターンブル首相やリム市長、日本の草賀純男駐オーストラリア特命全権大使らが慰霊碑に献花を行い、犠牲者への追悼の黙祷が捧げられた。

沈没潜水艦の慰霊碑や日本船来航の石碑の保存、そしてダーウィン空襲75年式典での平和への祈り……。かつては敵同士として戦った日豪両国だが、その悲しい歴史を経て、両国は同じ仲間、友人として交流し、まさに共存していると言える。今回のダーウィンでの一連の取材で、家族や友人を一瞬で失ってしまう悲惨な戦争は2度と起こさず、いつまでも平和な世の中が続いて欲しいとの願いを新たにした。


PROFILE
飯島浩樹(いいじま・ひろき)
日本の民放局でニュース番組のディレクターなどを経て来豪。豪SBSの日本語教育番組の制作などに携わった後、TBSのシドニー五輪支局現地代表となる。現在、TBSのシドニー通信員として多くのニュース・レポートを日本に送っている。オーストラリア人の妻、子ども3人とシドニー北部に在住。

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