オーストラリアで今を生きる人 大谷正矩さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

大谷正矩さん

戦後70年の経験生かし

起業家を支援する「番頭」に

小学生の時に終戦を迎え、戦後の混乱期を生き抜いた。商社マンとして高度経済成長期を経験した後、シドニーで独立してから四半世紀。企業間の事業提携を支援する仕事を手がけながら、豪州の日本文学研究を奨励する「井上靖賞」を創設するなど日豪友好の慈善事業に力を注いでいる。(聞き手:守屋太郎)

 

——戦中・戦後の激動の時代に、学生時代を過ごされました。

1937年、京都市で生まれ、育ちました。祖父も父も医者で、戦前の生活は比較的恵まれていました。戦争が始まり、父は海軍技官として現地の子供たちを診療するためインドネシアに派遣されたので、私たちは熊本の父の実家に身を寄せました。戦況は悪化し、陸軍基地があった熊本は連日激しい空襲を受けました。

小学2年生でした。夜中に叩き起こされ、空を見ると轟音とともに焼夷弾の赤い雨が降っていて、布団をかぶって必死で逃げました。それから郊外の祖父の別荘に退避しましたが、そこに軍の空港があったので、毎日、グラマン(米軍の艦上戦闘機)の機銃掃射から逃げていました。

ところが、その日は不思議なことにグラマンが1機も飛んで来なかったんです。機銃掃射の音がしない静寂な焼野原を長時間歩いて家に帰りました。家に戻ると「戦争が終わった」と聞かされました。敗戦のショックよりも「これで死なずにすんだ」という安堵感の方が大きかったですね。45年8月15日のことです。

終戦直後の生活は貧しかったです。1カ月以上、コメ粒1つ食べられませんでした。その後、別人のように痩せ細った父が復員して来て、京都に戻りました。。その後、父の仕事の関係で高校時代は広島で過ごしました。

本ばかり読んでいて、勉強はまるでできませんでした。大学は医学部を受験したのですが落ちてしまいました。上京しておじ2人、浪人時代の下宿の先輩など多くの方に世話になりました。おじの1人は作家の井上靖。もう1人は三井金属鉱業で地質技師のトップを務める人でした。叔父叔母から薫陶を受けたことが、人生の糧になりました。父は私を医者にすることを諦めましたが、「将来は海外と関係のある仕事をしろ」と言いました。結局、早稲田大学理工学部の鉱山科に入学しました。

 

——その後、商社マンとして資源開発に携わります。「資源のない日本が戦争に負けた」という思いがあったのでしょうか?

高尚な考えがあったわけではありませんよ(笑)。おじの影響もあって、純粋に「資源の仕事は面白い。やりがいがありそうだ」と思ったからです。大学時代は日本中の鉱山で見学したり実習をしたりして、卒業後は三井鉱山(現在の日本コークス工業)に就職しようと思っていました。

このころ、エネルギー革命が起きて燃料の主役は石炭から石油に交代します。おじに相談したところ「商社が海外で資源を開発して輸入する動きが活発になる。技術系の人材も採用する」と言われ、面白いと思いました。三井物産の入社試験を受け、高度経済成長で人手不足でしたのですぐに採用が決まりました。

61年に入社すると、製鉄原料を扱う、その年誕生したばかりの鉄鉱石課に配属され、同課初の新入社員でした。英語はできませんでしたが、翌年に初めて飛行機に乗り、カナダの鉄鉱石鉱山に海外出張に行きました。トロントからニューヨークを周り、大陸の広さと生活水準の高さにカルチャー・ショックを受けました。「日本はなぜこんな国と戦争をしたんだろう」と思いましたよ。

その後、フィリピンの砂鉄鉱床の開発と輸入に関わっていたころに妻と結婚しました。70年から約6年、ニューヨークに駐在しました。新しい仕事を作れとの社命で前任者はなく、与えられたものは電話と机だけでした。週末は日本から来る客を家でもてなし、平日は米国中を出張していましたから、支えてくれた妻には本当に感謝しています。1歳の長男を米国に連れていき、次男と三男は現地で授かりました。

 

——オーストラリアに関わりを持つようになったきっかけは?

東京本社に戻ると、三井物産が出資するオーストラリアの2つの鉄鉱石鉱山の操業・管理責任者を命じられたんです。米国企業と組んで中国の製鉄メーカーに鉄鉱石を長期契約で売り込むことに成功するなどの実績を残しました。この事業は今では三井物産のドル箱の1つです。

その後、84年にシドニーの豪州三井物産に赴任しました。親しい先輩が現地の社長を務めていて、新規事業開発責任者として私を呼んでくれたんです。机1つと電話1本だけ与えられ、「会社のために新しい仕事を作れ」とのみ命じられました。そこでまず「オーストラリアの次の国策は何か」を探るため、当時のボブ・ホーク首相の演説を分析したところ、観光とハイテクが有望だということが分かりました。

ただ、ハイテクは産業基盤がないので将来性はないと判断し、狙いを観光産業に絞りました。オーストラリアの政府系金融機関とオーストラリアの民間企業、三井物産を含む日本企業3社による日豪官民共同のスキームを組み、ブルー・マウンテン(シドニー西方の観光地)で「フェアモント・リゾート・ホテル」を開発し操業しました。QLD州のミラージュ・リゾートの50%の権益の日本への売却なども手がけました。

 

——大谷事務所を設立されて今年で25年になります。なぜ商社を辞めてシドニーで独立しようと思ったのですか?


1990年に独立した当時の大谷さん


約半世紀にわたり大谷さんをしっかり支えてきた奥さんとの2ショット

大きな誤りでした(笑)。苦労しています。

熊本の大空襲から「明日のことは分からない」という教訓を学びました。帰国命令を機に安定したサラリーマンを辞め、独立して将来を歩む決断をしました。子どもも海外生活が長く英語で生活していましたし、きれいな緑や自然に恵まれた環境の中で新しい人生を歩もうと考えました。

大阪で関西支社長に就任した先輩に「帰ってこい」と言われて、いったん帰国したんです。しかし、既に妻には独立の話をしていて、腹は決めていました。着任のあいさつをした際に先輩に「1回しかない人生ですから」と頭を下げました。

何もないところから始めましたが、豪州で良き友を得て、引っ張ってきてもらいました。日豪間、豪州企業間の業務提携やジョイント・ベンチャー(合弁事業)のあっせん、日本企業の豪州法人の役員引き受け、市場調査、市場開拓、豪州企業の対日事業に関するアドバイスなどを手がけてきました。オーストラリアとニュージーランドの鉱業コンサルタントの資格を持ち、非鉄金属の新規探鉱プロジェクトも日本に紹介しています。

また、京都市長から「在豪州京都国際観光大使」(ビジット・キョウト・アンバサダー)を命じられ、京都の観光や歴史、伝統工芸、最先端の産業などを豪州にPRしています。大谷事務所として96年以来豪日経済協力委員会のメンバーであり、NSW豪日協会の理事も務めています。

 

——日豪の友好関係を深めるための多くの事業に関わっています。ご夫婦でそうした社会奉仕活動に積極的に取り組んでいるのはなぜでしょうか?

日豪関係が非常に重要だという気持ちがモチベーションになっています。以前よりもオーストラリアでの日本の経済的な存在感は相対的に低下していますが、それに反比例する形で、特にインテリ層の間では日本の豊かな文化や自然に対する関心は高まっています。オーストラリア人にもっと日本に興味を持ってもらおうと、さまざまな交流行事や日本文化・芸術の紹介のイベントを企画し、実施してきました。

近年の代表的なプロジェクトの1つとしては、「井上靖賞」の創設があります。2006年の日豪交流年を機に井上家とともに賞を立ち上げ、今年で10回目になります。井上靖全集を海外に寄贈する国際交流基金の事業に漏れていた豪州のシドニー大学のフィッシャー図書館に全集を寄贈することになったんです。しかし、本だけを贈ってもあまり活用されず眠ってしまう恐れがあると思い、日本文学研究とその研究者を奨励するような賞を作ってはどうかと考えたのです。

ただ賞を授与するだけではなく、多くの日豪の皆様から受賞者が祝福される式典とすべく文化プログラムを毎年、実施しています。賞金はささやかですが、3人の選考委員が毎年オーストラリアの研究者が発表した論文の中から選び、国際交流基金や在シドニー日本国総領事館をはじめ、民間の約100人近いボランティアの人々の善意によってイベントを盛り上げてもらっています。

このほか、ロータリー・クラブの会員として65年以来日本に派遣された交換留学生の同窓会を作り、名誉会長も務めています。また、市長から要請を受けウィロビー市(シドニー北部)と姉妹都市提携を結んでいる東京都杉並区からの親善ミッション100人の受け入れに協力、そして私がメンバーの1人である同市内にあるロータリー・クラブ・オブ・ノースブリッジと杉並ロータリー・クラブの姉妹クラブ提携なども実現させました。

 

——人生の目標について教えてください。

妻に「一生仕事しなさい」と言われていますので、そうするつもりです(笑)。ここにきて日本経済がようやく復活しつつあり、オーストラリアに日本企業が戻ってきています。そうした中で、若い人と組んで、私が今まで培ってきた体験やノウハウを役立ててもらいたいと考えています。

かつての日本は若者から高齢者までさまざまな世代が知恵を出し合ってきました。昔からよく言われていることですが、創業者から1代で成功した企業にはいい番頭がいるものです。私はその番頭になって、企業を支援したいと思っています。

オーストラリアでは国際社会にどんどん出て行って活躍している若い人が多いです。日本の若者も起業家精神を発揮して、海外で思い切りチャレンジしてほしいですね。

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