マーベラス・メルボルン「約束の地「セントキルダ」」

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第23回 約束の地「セントキルダ」

多くの難民がたどり着いたセントキルダ桟橋
多くの難民がたどり着いたセントキルダ桟橋

1841年2月、イギリスの貴族アクランド卿が所有する帆船「レディ・セントキルダ号」がメルボルンに到着した。2年ほど沖に停泊していたために、物見高いメルボルンっ子の間で、その帆船はすっかり有名になっており、停泊地がセントキルダと名付けられ、中心の通りがアクランド通りと呼ばれた。

53年に木造のセントキルダ桟橋が設置されて以降、ゴールド・ラッシュの影響もあり多くの移民がセントキルダにやって来るようになった。

そのころ(1845年~1852年)、ヨーロッパでは「ジャガイモ飢饉」と呼ばれた大災害が発生していた。特にアイルランドでは惨状を呈していた。当時、アイルランド全土はイギリス領であったが、領主であった英国貴族たちは、大飢饉でアイルランドの人口の25パーセントが餓死する惨状だったにもかかわらず、アイルランドの自分の領地から穀物をイギリスに向けて出荷し、イギリス政府もアイルランド難民を助けることはなかった。そのため、大飢饉でアイルランドの人口は最終的に半分にまで激減した。現在も続くアイルランドの紛争は、この時に端を発していると言って良い。

バラクラーバ駅とレディ・セントキルダのレリーフ
バラクラーバ駅とレディ・セントキルダのレリーフ
セントキルダの象徴、ルナ・パーク
セントキルダの象徴、ルナ・パーク
室内で海水浴ができるシーバス
室内で海水浴ができるシーバス

ゴールド・ラッシュに沸くメルボルンには多くのアイルランド難民がセントキルダ桟橋に到着した。

53年から56年にかけて東欧のバルカン半島でクリミア戦争が勃発した。英仏、オスマントルコ対ロシアの戦争で多くの難民が発生し、その結果、メルボルンにも多数の戦争難民がやって来た。特にセントキルダ桟橋から入国する人びとが多く、セントキルダにはバラクラーバ駅、クリミア戦争で活躍した看護婦の名を冠したナイチンゲール通り、インカーマン通りなどクリミア半島の名前が付いた場所や通りがたくさん残っている。

セントキルダには多くのユダヤ人も住んでおり、独特の服装と風習で知られているが、多くはロシアやウクライナなどからのユダヤ人難民である。

多くの難民にとって食料が豊富で差別が少ない自由の地、メルボルンは「約束の地」であった。オーストラリア第二の鉄道路線メルボルン・セントキルダ線が57年に開通すると、多くの人びとがその地に住み始めた。

市内近郊の海岸ということもあり、現在は、遊技施設ルナ・パークやパレス劇場、カタニ公園、シーバス(海水プール)、セントキルダ桟橋パビリオン、エスプラネード・ホテル、フィッツロイ通り、アクランド通り、エスプラネード通りの日曜市などの名所が並ぶメルボルン最大の郊外観光地である。AFLのセントキルダ・セインツの本拠地としても知られる。メルボルン市内からトラムで30分程で行くことができる。


文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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