【特別寄稿】戦後70周年オーストラリアの地より

特別寄稿集
終戦70周年
オーストラリアの地より

2015年8月15日、日本は第2次世界大戦の終結から70周年を迎える。第2次世界大戦と言えば多くの日本人が真っ先に対米戦を想起するに違いない。一方でオーストラリアと交戦した事実はもしかしたら全く知らない人もいるのではないだろうか。
 本特集では70周年のこの節目に4人の方に執筆を依頼することにした。草賀純男・在オーストラリア日本国大使、メルボルンをベースに平和活動を行っていたスピアーズ洋子さんからは日豪の関係性を軸にご寄稿いただいた。また、当時広島で被爆しながらも今はともにシドニーで作家活動を行っているブレア照子さん、森本順子さん姉妹からは当時の体験談をいただいた。絵本作家である森本順子さんからは書き下ろしのイラストも届いた。
 世界の情勢変化に伴い、日本国内も「新安保法制」をめぐり揺れている。2度と起こしてはならぬ惨劇。平和を保つために私たちに何ができるか、今一度考えるきっかけとなれば幸いだ。(編集部)

草賀純男
在オーストラリア日本国大使

 日豪の熱い友情と強固な信頼関係

第2次世界大戦が終わってから今年で70年を迎えます。日本では、太平洋戦争は主に日本と米国の間の戦いとして記憶されている面が強いかもしれません。しかし、オーストラリアも連合軍の一員として参戦しました。その後、70年をかけて、日本とオーストラリアの関係は戦争という過去を乗り越え、良好な関係を構築してきました。

今回は日本とオーストラリアの戦後70年にわたる歴史と関係を振り返って、特に、カウラ日本兵脱走事件について、それから豪州の退役軍人の方々の和解への努力についてご紹介したいと思います。

ニュー・サウス・ウェールズ州のカウラ市(シドニーの北西約310km)には、大戦中、捕虜収容所が設けられ、約1,100人の日本人が収容されていましたが、当時の日本軍・日本人社会の間には「捕虜になることは恥」という考え方が根強く、1944年8月5日未明、日本兵がカウラ収容所からの集団脱走を決行し、238人の日本兵と4人のオーストラリア兵が亡くなるという痛ましい事件が起こりました。しかし、それからの70年間に、カウラ市には日本人戦没者墓地、日本庭園、桜アベニューなど、カウラ市民の皆さんの思いを象徴する多くのものが造られました。これらの事業に携わってこられたのは、カウラの歴代市長や善意の市民の皆様と一部の日本人ですが、当時のオーストラリアにおける反日感情を考えると、お互いに対する憎悪や反感を乗り越えるために、血のにじむような努力が必要だったことは想像に難くありません。皆様も一度ぜひ、カウラ市の日本人戦没者墓地を訪問してみて下さい。カウラ市民が、当時敵国だった日本人兵士の墓地を、いかに敬意を持って、長年にわたり丁重に管理してきたかが、よく理解できると思います。

多くの日本兵がカウラの地で眠っている(撮影:馬場一哉)
多くの日本兵がカウラの地で眠っている
(撮影:馬場一哉)

こうした事業に関わったカウラ市民の皆様の想像力、精神力、リーダーシップ、不屈の努力に対して心から感謝の意を表したいと思います。それと同時に、このことは、人と人の友情と信頼によって、小さなコミュニティーでも大きな平和を創出できることを物語っていると思います。こうした偉業を通じて、多くの尊い命を奪い、生き残った人々を悲嘆に陥れ、苦痛の記憶を植え付けた戦争の悲劇を克服して、今日、日本とオーストラリアの国民は、世界に類を見ないほどの強くて熱い友情と強固な信頼の関係を築きあげたとも言えると思います。

もう1つ、日本とオーストラリアの戦後の友好関係を象徴する事業があります。元オーストラリア兵捕虜(POW)などを日本に招聘(へい)する事業です。日本政府は平成9年度から平成17年度まで、また平成22年度以降、元POWの関係者などを日本にお招きしています。日本では、こうした被招聘(へい)者の皆さんを日本の各地にご案内するほか、子どもたちや市民との交流を図るイベントにも参加していただいています。これまでに、この事業で日本を訪れた元POWの方々からは、「戦争中、日本により抑留されていたが、この経験は過去のものである。日本とオーストラリアの関係は現在良好であり、両国が和解していることは喜ばしい」、「今回日本を訪問し戦後、日本および日本国民が平和を大切にする国に変わったことを自分で体験することができ、本当に嬉しい」、「戦時中はつらい経験をしたが、戦後70年が経過した今、日本政府の招待で来日できたことを嬉しく思う。日本とオーストラリアの友好関係がさらに強化されることを望む」といった感想が聞かれました。

このように、かつて実際に銃を向け合い戦った方々が語ってくださったことは、両国の相互理解と友好の過程で決して忘れてはならないことだと思います。彼らが自らの苦しく痛ましい体験にもかかわらず、大いなる寛容さと勇気を持って、日本人を友として受け入れ、両国の関係を発展させるべく歩んでくれています。先にカウラ市をご紹介しましたが、同市にいらっしゃる元POWの方々は、日本人戦没者墓地ができるまで、日本人に代わって墓地を維持・管理してくださいました。このような、実際に戦火の中におられた元POWの方々との相互理解は、まさに戦後の日本とオーストラリアの真の和解を象徴するものであると思います。

昨年7月にオーストラリアを訪問した安倍晋三内閣総理大臣も、オーストラリアの連邦議会での演説の中で、戦後、オーストラリアの方々が日本に対して差し伸べてくれた寛容の精神と友情に、心からの感謝の意を表しました。同時に、過去に対する痛切な反省を行うとともに、平和をひたぶるに願い今日まで歩んできたこと、20世紀の惨禍を2度と繰り返させまいとの日本が立てた戦後の誓いは今度も変わることはないと述べました。

毎年8月15日の終戦記念日は、先の大戦を振り返りつつ、生きることの意味、家族の絆や友情、そして平和について改めて考える良い機会です。現在の暮らしを享受していることの喜びを感じるとともに、皆様が暮らすここオーストラリアにおいて、戦後にオーストラリアの人たちが示してくれた和解のエピソードをぜひ心に留めていただきたいと思います。

私は、日本とオーストラリアが今日の友好な関係を築きあげるために、長年にわたって両国の架け橋となった人たちの努力と貢献を、次の世代へしっかりと伝えていくことが、今を生きる私たちの使命であると確信します。

<プロフィル>
中央大学法学部卒、米国ペンシルベニア州のスワスモア・カレッジで経済学位を取得。1999~2000年、米国ハーバード大学の国際問題研究所のフェローを務めた。78年に外務省に入省。財務省副財務官(04~06年)、外務省経済局審議官(06~08年)など外務省および財務省で経済関係の主要なポストに就任。これまでに、在ニューヨーク総領事(大使、13~15年)、外務省儀典長(大使、12~13年)、アフリカ審議官(大使、10~12年)などを務め、今年4月より現職。1953年生まれ。

ブレア照子
作家

 生きのびて70年

私が20歳の夏、故郷広島が壊滅した。1945年8月6日午前8時15分、世界初の原子爆弾投下!

その時、姉弟妹私の4人は家にいた。高く遠い爆音を聞いた次の瞬間、熱い閃光に目がくらんだ。続く猛烈な轟音、体が投げ飛ばされる激しい衝撃、倒れる家具、裂けた天井、揺れる床、真っ暗闇の中、必至で妹と抱き合い気を失っていった。死んだと思った。どれだけ経ったか……私たちは生きていた。

その朝妹は学校を休んでいた。2日前からおなかを壊していたので休ませたのである。私も町内から市中へ勤労奉仕が予定されていたのが急に中止になって家にいた。弟は動員先の軍需工場から夜勤明けで家にいたし、姉は遅い朝食をとっていた。父は散髪に行くといって自転車で出かけたばかりであった。

姉はあの衝撃で箸が唇を裂き歯を1本失い血だらけで背骨も打撲し、弟はガラス窓を背にしていたため、粉々になったガラス片が背中いっぱいに突き刺さった。おまけに裸足で逃げ出す時、太い釘を踏みぬいていた。近くの山陽線のガード下から出かかった所で父はあの閃光と爆風で自転車ごと吹き飛ばされ、顔面と両手の甲を火傷した。後がえりして来た父は「早く川へ逃げろ!」と私たちを急かした。

線路の枕木はあちこちから煙をあげていたがその上を裸足のまま、川へと急いだ。見はるかす市中は一面の炎に包まれていた。振り返ると我が家のあたりは既に燃え始めていた。太田川の土手は大勢の人々が市中の方から続いていた。兵隊さんたちがぼろきれで人々の体に油のような物を塗っていた。両手の指先から灰色の薄いボロ布のようなものをぶら下げた、裸同然の大人や子どもたち、それがあの一瞬の閃光によるヤケドだとは知る由もなかった。「オカアチャーン オカアチャーン!」。どくどくと血を頭から噴き出して寝転がっている母親にしがみついて泣き叫ぶ幼い女の子。死んでいるらしい赤ちゃんを背中にくくりつけた母親。地獄絵の中をともかく川上へと歩き続けた。突然の爆雷、空襲だ!と地面に伏せた避難者たちに大粒の雨が襲った。

この雨は着ていた白い上着に黒いシミを残し、それは後でいくら洗っても落ちなかった。後に言う「黒い雨」だった。知人の家にひとまず行こうと、渡し船で向こう岸へ渡った。「水をくれー」と喘ぐ人たちに「水を飲んだらすぐ死んでしまうけん……」と言葉が返される。それでも手を伸ばし水を求める人々。知人の家では長男が勤労作業に行ったまま帰って来ないと騒いでいた。上の方がパチパチ燃えている山の裾に掘られた横穴で、私たちはひと晩過ごし、翌日7日、町内が定めていた避難先の村まで炎天下を飲まず食わずで歩いた。父の顔はヤケドで倍くらいに腫れ、両手は水膨れだらけになっていた。たどり着いた安小学校は、どの教室もケガ人であふれヤケドが腐乱して異臭を放っていた。医者も、付ける薬もなく死んでいく人々を、校庭で焼いていた。わら半紙にプリントされた「被災者証明」をもらい、割り当てられた農家に厄介になった。

母のことである。当時肋膜を患う母は、瀬戸内海の倉橋島のある旅館で療養していた。広島から次々と運ばれてくるケガ人たちを見て、翌日、宿の人が止めるのも聞かず、連絡船に乗せてもらい、宇品港に戻った。母は私たちの住んでいた町まで、市中を南から北へと炎天下を歩き通した。家の焼け跡で泣きながら、家族の骨を探したと言う。偶然近所だった人が通りがかり家族の無事を知った母は、その足で安村へ向かった。日も暮れたので、ある小学校でひと晩休ませてもらった。そこも負傷者で一杯だった。母は真っ暗い教室の片隅で蓆(むしろ)をかぶり、疲れですぐ眠ってしまった。

翌朝、目が覚めて驚いた。死者に囲まれて寝ていたのである。

その日の夕刻、安小学校を訪ねて来た母を路上で見付けた妹と私、しっかり抱き合って泣いた。「よう生きとってくれた……」。母の絞り出すような声であった。

8月9日、長崎に2発目の特殊爆弾が投下された。それに追い打ちをかけるように、ソ連が満州に侵攻した。日ソ間の不可侵条約は破棄されたのである。

翌10日、農家の方に厚く礼を言い、私たちは焼けた我が家の跡へと向かった。父は安村特産と昔から言われている「安の目薬」が火傷にも効くからと、顔中まっ白に塗っていた。

焼け跡生活が始まって4~5日してから、私と妹は40度はありそうな高熱になり、咽喉が真っ白で、飲み食いもただならぬ状態になった。三滝山の麓で医師が診察をしていると知り、2人でふらふらしながら行ってみた。焼け焦げの松林の下に座った先生は、2人の喉をのぞいて「ガスを吸うたんじゃ、あの爆弾のせいじゃ」、そして空を指さし「このまま熱が続けばあちら行きだな」と。

とぼとぼと帰りながら、「うちら、死ぬらしいね」、「そうらしいね」と姉妹で言い合った。そのころ、あまりに「死」が身近に有り過ぎて「死」に鈍感になっていたように思う。

原爆がばらまいた放射能は白血球を低下させた一時的な後遺症であったことを、何十年も経って知った。原爆投下の翌日、広島市の真中を南北に歩いて通過した母は、その年の暮になったころ、突然高熱が続きだし、意識朦朧、髪の毛が抜け始めた。例の医師が時々往診してくれたが、「特殊爆弾のせいだろう」くらいで為す術もなかった。日に1合の牛乳が特別配給されたのが唯一の手当であった。半年の後、母が遅々としながらも回復に向かったのは幸いであった。これも被爆による後遺症の1つだったに違いない。

8月15日、遠く広島駅の拡声器から伝わってきた玉音放送で、戦争が終わった。昭和の15年間にわたった戦争が漸く終焉をみた瞬間であった。

ボロボロの焼け跡に佇み、もう2度と敵機襲来がない青空を仰ぎ深い安堵感と「平和」ということの尊さをしみじみ噛みしめていた。

そしてあれから70年!今も生かされている私である。

<プロフィル>
1945年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子どもがある。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた『オーストラリアに抱かれて』、『英語とんちんかん記』(ともにテレビ朝日出版)。絵本作家・森本順子は実妹に当たる。1925年生まれ。旧制女学校卒。2009年外務大臣賞受賞

森本順子
絵本作家

 昭和の15年戦争とわたし広島市に原爆が投下された直後の様子をペンで描き下ろしていただいた(イラスト:森本順子)

私が生まれる前から、日本は戦争をしていた。それも遠いヨソの国で。だから戦争とは外国でやるものだと思い込んでいたし、戦争というものを実感したこともない。やがてそれは大東亜共栄圏の名のもとに、太平洋戦争へと拡大した。小学校は国民学校と改められ、私たちは軍国教育にどっぷり浸かった少国民となっていった。にぎやかな軍艦マーチで始まる大本営発表のラジオ・ニュースは、常に勝ち戦を報じていた。教室の掲示板に貼られたアジアの地図に次々と日章旗のマークをはり、「ここも取った、この島も占領した、勝った勝った!」と歓声をあげた。

「勝たずば生きて帰らじと誓う心の勇ましさ……」

軍歌を合唱しながら毎朝校庭を行進した。「米英撃滅!」、「鬼畜米英」戦争のポスターばかり描かされた図画、オルガンの和音で敵機の爆音の聞き分け方を教わった。ある日先生の指導で校庭にいく筋も長いナマコ型の穴を私たちは掘らされた。空襲に備えた「防空壕」だが、天井も覆いもないから、そこに逃げ込んだ人たちが敵機から丸見えになるそれも浅い「塹壕」であった。ある日、1人の少年の壮行会が校庭で行われた。斜めにかけた赤い襷(たすき)に「満蒙開拓団」と書かれていた。バンザーイ!バンザーイ!「此処はお国の何百里 離れて遠き満州の……」と合唱しながら近くの駅まで見送った。「遠き満州」での、その後の彼の運命は知る由もなかった。

昭和19年(1944年)、私は広島女学院高等女学校に入学した。スカートはモンペに変わり、緑色のネクタイも禁止、救急袋と防空頭巾が必携、胸に住所・氏名・年齢・血液型を書いた白い布を縫い付けまさかの時のためとした。「富国強兵」、「国民皆兵」は男たちを戦場に駆り立て、銃後を守るのは女、子ども、お年寄りばかり。老いも若きもさまざまな作業に動員されるようになった。学校も夏休みはなし。次第に物資が店頭から姿を消していき、食糧の配給さえ滞る中、「欲しがりません勝つまでは」と空腹に耐えながら、軍需工場だのタバコの専売局だの、缶詰工場だの、農家の麦刈や玉ねぎ引き、練兵場の草抜きなどに励んだ日々。その合間を縫いせっかくの授業も警報が鳴るや帰宅しなくてはならず、落ち着いて勉強できる状況ではなくなっていった。なぜか校舎の1室で憲兵らしき将校がいつも睨みをきかしていた。

「昭和18年5月12日アッツ島玉砕」

そのことをいやでも知ったのが市中にある福屋百貨店の外壁に吊り下げられた長い垂れ幕だった。そこに墨で描かれた凄まじい絵!左腕を布で首から吊り、満身創痍、両足を踏ん張って仁王立ちに立ち、右手で軍刀を振りかざした、鬼気迫る兵士の姿であった。「皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて骨を切れ」。大和魂のこの兵士は「聖戦」を戦ったと信じたまま「天皇陛下万歳!」と叫んで果てたに違いない。

北極に近い小さな無人島のその玉砕に始まり南の島々でも相次ぐ玉砕、不沈と言われた戦艦大和のあえなき最期、空襲による日本中の街々のほとんどが焼土と化しつつあること、そして遂に沖縄へ米軍大挙上陸(戦争とは外国でやるだけじゃなかったんだ……)。「我が方の損害僅少なり」。いつもの報道の陰から隠しきれない敗色が露わになってくると、ひそかに「本土決戦」が囁かれはじめた。

敵の艦砲射撃に女子どもが竹槍でどうやって戦えと言うのか?「一億総玉砕」はもう目前に迫っていた。「生きてたらまた会おうね」……これが友達との「さよなら」に続く日々の別れの言葉となった。「死」というものが身近になった13歳の私たちであった。

昭和20年8月6日午前8時15分、広島市に世界初の原子爆弾が落とされた。そのことは姉・ブレア照子の証言と重複するので割愛する。

広島女学院同窓会発刊の「被爆60周年証言集」に記載された被爆による死者数のデータによれば、高女、専門学校合わせて330名、教員20名となっている。当日広島の市街地に疎開作業で動員されていた高女1、2年生211名が被爆死した(奇跡的条件の重なりで私はこの数字に含まれずに済んだ)。

引き際を考えもせずに始めた昭和の15年間にわたった戦争は、世界初の原爆により犠牲者を山積みにした果てに、天皇陛下の勅諭でようやく終わりを告げた。

しかし、せっかく生きのびた被爆者のすべてが幸せな「その後」に恵まれたわけではない。放射線で傷ついた遺伝子は人によっては20年後、30年以上も後になって各種の癌や白血病などを発生させている。私と同年の従妹のことである。爆心地から800メートルぐらいにあった自宅で父親とともに被爆した。1カ月を待たず父親は体中から出血が止まらぬまま亡くなった。13歳だった彼女は、高熱、下痢、嘔吐が続き髪がすべて抜け落ちた。だがなんとか生き残った。ようやく髪も生えそろい元気な青春時代、そして結婚、2人の子どもにも恵まれた。しかし30代半ばになって襲ってきた後遺症と思われる数々の症状に苦しみ続け、入退院を繰り返した末、54歳で亡くなった。もう1例。当日、疎開作業で動員されていたある同級生のことである。背中に火傷をし全部髪が抜け落ちていた彼女が幸運にも元気な体を取り戻し、文化祭で活躍したり、高校も成績優秀で卒業、就職先での出会いから幸せな結婚、男の子2人も授かった。しかし突然起きた白血病が容赦なく彼女の命を奪った。そのことを知らなかった友人たちが旅行の途上で久々に彼女を訪ねた時、「今後一切彼女のことには関わらないでいただきたい、すべて忘れてください」。ご主人から強く言われたという。その後間もなく住所も連絡先も不明になったまま、今にいたっている。

私は被爆者ということで差別された記憶はない。だが新米教師だったころ、こんなことがあった。欠勤した教師の補欠で教室に行き自習をさせながら生徒たちに私の被爆体験を話したことがある。そのあと校長室に呼ばれた。「あの手の話をしてたら嫁に貰い手がなくなるさかい、あまり言わん方がよろしいで……」と。

被爆して何日目だったか、姉と私だけに、一時的な後遺症が出たこと、被爆翌日広島の市中を歩いて横切った母が半年にわたり高熱、意識朦朧、脱毛などの症状で苦しんだ。それが被爆が残した症状とは当時医者にさえ解らなかった。このことも姉の手記に有るので再度は触れない。

放射線禍というものはかくも執念深いものである。原爆による放射線は被爆者の細胞内遺伝子に傷を付けるからである。現在、被爆による人体への障害は厚生省によって白血病、甲状腺がんなど15の病気が認定されているが、未だ解明し尽くされた訳ではない。被爆者疾病認定の申請が70年経った今でも続いている。

新たな被爆者を出してしまった福島第一原発のことである。大震災に伴う巨大津波の襲来によって発生した原発の大災害は「想定外」の「自然災害」だと言い訳をしているが、果たしてそうなのか。原子炉への対応の遅れが招いた水素爆発は大気中に放射能を大量に振り撒き、広範囲にわたる多数の人々にふるさとを失わせてしまった。その放射能がいまだに生き続けている「汚染物質」や海には流せない「汚染水」もたまる一方で廃棄する手立てがなく、保管場所さえ見つかっていない。廃炉に……しかしそれは何十年もかかる大仕事だという。

こうした簡単には解決できない甚大なリスクのあることを知りながら、リアリテイーを伴わない「安全神話」や「核の平和利用」を謳い上げ、日本国中に何十カ所もの原発を作り続けて来たのであろうか。その「安全神話」に今なおしがみつき、原発の「再稼働」へ舵を切ろうとしている。終わるタイミングもその方策も一切考えの中にないまま昭和の15年間を戦争に固執し、300万に上る尊い人命を失わせたあの「愚」を思い出さずにはいられない。

人間が人間を殺し合う戦争というものに正義はない。特に「昭和の15年戦争」にいたっては犯罪に等しい。その「戦争」を「憲法」が「放棄」したおかげで日本は70年間に及び平和な時代に恵まれて来た。しかし多大な犠牲を多くの近隣諸国に及ぼし、自国民にも強いたこの「15年戦争」について、国家の重大な歴史として正しく教育の中に組み込んで来なかったために、戦争も原爆のことさえ知らない世代が大半となりつつある。天災も戦争も近頃は「忘れないうちにやって来る」ようである。その上に「原発事故」も加わればSF小説並に地球には「ソシテ ダレモイナクナッタ……」時代が来ないという保証はどこにもないのである。

<プロフィル>
1945年、広島市内の自宅で被爆。1982年にオーストラリアに移住以来、30年以上にわたり、「鶴の恩返し」「一寸法師」など日本ゆかりの情緒豊かな14冊の絵本を出版し、さまざまな賞を受賞。中でも自らの被爆体験をもとに描いた絵本『My Hiroshima』は大いに話題に。国内の小中高校で平和をテーマとする数々の講演や特別授業を行うなど、戦争の悲惨さ、そして平和の尊さを世に訴え続けている。作家・ブレア照子は姉。1932年生まれ。2014年外務大臣賞受賞

スピアーズ洋子
Japanese for Peace元メンバー、フリー・ジャーナリスト

 戦後70年の日豪関係を振り返って

昨年、安倍首相が来豪した際にABCテレビのニュースを見ていたら、アボット首相が次のようなメッセージを述べていました。

「歴史を否定することはできないし、何があったか忘れてはならない。しかし、いつまでも過去にこだわり続けるのはもう止めようではないか。大切な未来を見すえて先に進むこと。戦後約70年、日本が平和国家として歩んできたことを認め、評価しようではないか」

こうしたメッセージをオーストラリアの首相が公に表明したのは、初めてのことではないでしょうか。約70年を経てやっとこのような政治家の発言が可能になったのかと、感慨深く受け取りました。

終戦から30年ほどの間、オーストラリア人の反日感情は非常に厳しく根強いものでした。今では信じられないことですが、日本人だからという理由でパブやレストラン、ゴルフ場に入ることを断られたり、足元に唾を吐かれたりということがあり、アンザック・デーには日本人はトラブルを避けて家に閉じこもり、数少ない日本食店もドアを閉じていました。マルチカルチュラリズムを推進するようになってからも、アンザック・デーに予定されていたメルボルンの和太鼓演奏が、戦争のイメージにつながるからという理由で直前にキャンセルされたのは、つい10年ほど前のことです。

では、なぜこれほどまでにオーストラリアで反日感情が強かったのでしょうか。理由の1つに、戦時中の日本軍の捕虜虐待問題があります。終戦後、東南アジアや日本の捕虜収容所で強制労働をさせられていた捕虜たちが解放され、日本軍の残虐行為が次々と明るみに出ました。当時、日本は国際連盟を脱退しており、日本軍では戦時におけるハーグ条約、ジュネーブ協定を無視した捕虜虐待がありました。

シンガポールのチャンギやタイ、ビルマの国境を走る鉄道建設のための強制労働収容所、九州の炭鉱や軍事工場など日本軍の捕虜収容所から解放された捕虜たちの写真や帰還兵の証言は、オーストラリア社会に強烈なショックを与えました。戦争だから戦闘で死ぬのは仕方がないとしても、抵抗できない捕虜を過酷な強制労働に駆り立て、虐待、拷問などで殺した日本軍の行為は許しがたい、という強い憤りが国民感情として残ったのです。東京裁判で昭和天皇の戦争責任を一番鋭く追及したのもオーストラリアでしたし、昭和天皇崩御の際にも責任問題が再びメディアに取り上げられました。

後に、これらの捕虜たちの証言は年月とともに忘れ去られるべきではないとして、メルボルン在住の足立良子さんとアンドリュー・マッケイさんがインタビュー、取材、編集し、「Shadow of War」「Echoes of War」という2冊の本にまとめられました。

このように厳しい日豪関係ではあっても、終戦後まもなく豪州に渡ってきた日本人がいました。戦争花嫁と呼ばれる女性たちです。オーストラリアは日本を占領するにあたり、戦時に日本軍との戦闘経験や捕虜になった経験を持つベテラン兵を派遣すると、復讐心が起きて日本人と正常に接するのは難しいだろう、と考えました。占領政策をスムーズに実行するためには、占領軍と日本人との摩擦は避けなければならないという理由から戦闘経験のない若い軍人を主に派遣しました。その結果、想定外のことが起こります。

若い軍人たちと日本女性との出会いがあり、一般女性との交際は禁止されていたにもかかわらず、若さゆえの純粋さから恋愛・結婚へと発展するケースが出てきたのです。当時、オーストラリア兵と結婚した女性は“戦争花嫁”と呼ばれ、入国ビザの発給まで5年以上も待たされました。元敵国である夫の国での暮らしはどれほどの苦労を強いられたことか、想像に余りあります。

日本の復興が進むにつれ、資源が必要な日本と輸出をしたいオーストラリアとの経済関係は次第に強まり、80年代に経済大国となった日本への風当たりは弱まりました。奇跡の発展を遂げた国の言語を学ぼうと日本語ブームが起こりましたが、日本が経済大国の地位を失い迷走を始めるとそのブームも次第に鎮まっていきました。また、戦争中の日本軍の捕虜虐待をしきりに訴え続けていた退役軍人たちの声も時とともに薄らぎました。しかしオーストラリアの学校教育では、太平洋戦争中の出来事をしっかりと教えています。また、旧日本軍の捕虜虐待、戦争犯罪をテーマにした映画やテレビ番組は時を隔て再三制作され、高い視聴率と関心を得ています。

しかし現在では戦争の怨念を持たない世代に、日本のアニメやマンガ、ゲームを中心としたサブカルチャーとしての日本ブームが再び浸透してきています。日本食もしっかりと根を下ろし、日本でスキーをしたり旅行を楽しむオーストラリア人が増えてきました。

今年7月にはクイーンズランド州で米、豪、日、ニュージーランドの合同軍事演習が行われました。世界情勢は急速に変化し、歴史は大きく転換しています。しかし、このような時にこそ両国の間で過去に何があったのかを互いに学び、理解した上で良好な関係を培っていくことが、将来の堅実な平和へとつながっていくのではないでしょうか。

最後に簡単に自己紹介させていただきます。私が所属していた“Japanese for Peace”(編注:プロフィール参照)は残念ながら諸事情により、昨年とりあえず一時解散となりました。今年は、以前にメルボルンで出会った日系シニアのナウル、マニラでの戦争体験と彼の生い立ちを追った回想記「日本とアメリカ ハーフ・アンド・ハーフ」をブイツーソリューション社より出版しました。太平洋戦争前後の日米関係をその両方から経験した貴重な記録です。日系人のアイデンティティー、ナショナリズム、人種問題などに興味のある方が参考にしてくだされば幸いです。

<プロフィル>
湾岸戦争をきっかけに、メルボルンをベースに平和活動を行うことを目的に誕生した平和団体「Japanese for Peace(JFP)」の元メンバー。反核・反原発・平和をテーマに、ミュージックやアート・パフォーマンスによるコンサートなどを通じ、広島・長崎の原爆投下の実態をオーストラリア人に知らせるとともに目的を同じくするオーストラリアのグループと連帯しながら平和活動を行ってきた。著書に『日本とアメリカ ハーフ・アンド・ハーフ ある日系人の回想』(ブイツーソリューション)。1942年生まれ。

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