マーベラス・メルボルン「悲劇の探検隊」

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第42回 悲劇の探検隊

市内中心地にあるバークとウィルスの銅像
市内中心地にあるバークとウィルスの銅像

1850年代後半になると豪州の沿岸地帯はほとんど調査され、入植が進んだ。大英帝国でロンドンに次ぐ第二の大都市メルボルンには資金と英知が集結しており、大陸内部の調査が計画された。大規模な調査隊が組織され、大陸縦断まであと一歩というところまで到達したが、隊長、副長など7名が死亡するという未曽有の大悲劇に終わった。

1857年に、科学協会ビクトリア・ロイヤル・ソサエティによって探検委員会が設立され、委員会メンバーは、植民地政府の主要人物で占められたが、実際に探検を経験した委員はほとんどなかった。

探検隊隊長には、アイルランド生まれで陸軍軍人のロバート・オハラ・バークが指名されたが、探検の経験は全くなかった。測量技師のウィリアム・ジョン・ウィルスが調査官、ナビゲーターとして副官に任命されたが、バーク隊長の経験の無さが、探検隊が全滅した決定的な要因であった。生きた牛を食料として連れて行く案もあったが、委員会は干し肉を選んだ。大量の食糧を運んだことが、探検隊の移動を遅延させた。また、大陸内陸部の砂漠探検用に24頭のラクダがインドから輸入された。

探検隊の母体ロイヤル・ソサエティ
探検隊の母体ロイヤル・ソサエティ
出発地点ロイヤル・パーク
出発地点ロイヤル・パーク
出発初日のエッセンドン
出発初日のエッセンドン

探検隊は、1860年8月20日にロイヤルパーク公園を2万名の観衆の中を出発した。19名のメンバーは、アイルランド人6名、英国人5名、ドイツ人3名、米国人1名、アフガン人ラクダ使い4名で、馬23頭、ワゴン車6台、ラクダ26頭であった。2年間の探検に備えて膨大な食糧、巨大な食卓テーブルやロケット弾、中国製銅鑼など合計20トンの装備品を携えた。

出発した深夜にはまだメルボルンの一部であるエッセンドンに到着した程度で、そこで2台のワゴン車が壊れた。悪い道路事情と雨のためにビクトリアを出るまでに多くの時間を費やした。離脱者や隊の分裂など苦難の末、探検隊は11月11日にクーパーズ・クリークに到着した。

バークはここで決定的なミスを犯した。バーク、ウィルズ、ジョン・キング、チャールズ・グレイの4名が3カ月分の食糧を持ってアタック隊として北へ向かい、4名を補給部隊として残した。

アタック隊は、メルボルンから2,800キロ離れた豪州北部海岸線までは到達できず、カーペンタリア湾まで残り5キロの地点で引き返した。食糧が尽き、雨季による豪雨、赤痢などの病気、ラクダや馬の喪失など苦難に見舞われた。飢餓と疲れの中で、クーパーズ・クリークまで戻ったが、待ち切れなかった補給部隊が数時間前に出発した後であった。メルボルンから救助隊が派遣され、一番若いジョン・キングだけがアボリジニに世話をされて生き残っていた。キングは、メルボルンへ帰還し、全滅した探検隊の苦難を伝えている。

探検隊が残したラクダは豪州内陸部で増え続けて現在、数十万頭に増大。豪州はラクダの輸出国となっている。


文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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