オーストラリアで今を生きる人 松井朔子さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.34 松井朔子(さくこ)さん
日本語・日本文学の普及に貢献、「平生釟三郎日記」編纂に尽力


Photo: The Women’s College, Vol.34, 2018

1961年にシドニー大学に日本語講師として来豪し、約40年間にわたってオーストラリアにおける日本語教育と日本文学研究に貢献してきた。その功績が認められ、2016年に日本の瑞宝双光章、18年1月のオーストラリア・デーにオーストラリア勲章(AM)をそれぞれ受勲した。01年にシドニー大学を退官した後も、同大学名誉准教授として研究活動を続けている。現在、母校の甲南大学の母体である甲南学園の創設者で、近代日本の黎明期から経済人・政治家として活躍した平生釟三郎の日記の編纂に携わっている。(聞き手:守屋太郎)

――戦中・戦後の混乱期に日本で青春時代を過ごされました。学生のころから、将来は海外で研究者になろうという夢を持っていたのでしょうか。

1932年に大阪市西区で生まれ、兵庫県西宮市の甲子園で育ちました。父の影響で、小さいころから本を読むのが大好きでした。中学1年の時に終戦を迎え、1日で全てが変わりましたので、国や大人、学校の先生には不信感を持っていました。将来、海外で生活することになるとは思ってもいませんでしたが、英語の勉強は頑張って取り組んでいました。

神戸女学院高校を経て、1951年に新設された甲南大学に1期生として入学し、英文学を専攻しました。そこで、ウィリアム・ブレイク(英国の詩人)などの研究で知られる寿岳文章先生、シェイクスピア研究の権威だった大塚高信先生、英国の詩人としても知られたD.J.エンライト先生に師事しました。卒業後も研究副手として研究室に置いて頂き、勉強を続けていました。

自著『猫と庄造と二人のをんな』の英訳を手に、シドニー大学キャンパス内クアドラングルで。2018年1月31日撮影(Photo:Greg Turner, The Weekly Times)
自著『猫と庄造と二人のをんな』の英訳を手に、シドニー大学キャンパス内クアドラングルで。2018年1月31日撮影(Photo:Greg Turner, The Weekly Times)
ウィメンズ・カレッジの自室で。1969年ごろ
ウィメンズ・カレッジの自室で。1969年ごろ

――オーストラリアに渡ったきっかけは?

そのころから、海外に留学して英文学の研究を深めようと思っていました。ただ、現在のように自費で簡単に留学できるような時代ではありません。英国のケンブリッジ大学でシェイクスピアを学びたいと考えていましたが、甲南大学からシドニー大学に移られた日本研究者のG.W.サージェント先生から「日本文学を教えながら、英文学を勉強してみないか」とお誘いを受けました。

シドニー大学東洋学科は1917年に創設された非常に歴史のある学科で、戦後は一時中断していたのですが、サージェント先生の着任と共に日本語教育が本格的に再開されていました。これに伴って、日本人の教師を雇うことになったというのです。母は当時としては進歩的な人で、私の背中を押してくれました。当時お付き合いしていたボーイフレンドがいなかったわけではないのですが、思い切って引き受けることに決めたんです(笑)。

――当時は日豪両国が戦火を交えた第2次世界大戦の終結からまだ十数年。欧州系の移民しか受け入れない「白豪主義」の時代でしたが、生活は大変ではなかったですか?

1961年3月、大阪商船の貨客船に乗り、11日間の船旅を経てシドニー港に降り立ちました。シドニーに着くと、すぐに大学内のウィメンズ・カレッジ(女子学寮)に入りました。オーストラリア人の大学院生、研究者の他に、海外からの教師や留学生も多く、国際色豊かな環境の中で10年間、暮らしました。とても楽しい生活で、辛い思いはしませんでした。教師として採用されていましたので待遇も良く、充実した日々を過ごすことができました。

現在は1年生で約300人の学生が日本語を選択しますが、私が着任したころは全学年合わせても20人くらいしかいませんでした。当時のシドニー大学の日本語の授業は、文学作品を読むことが中心でした。歴史、思想についての講義が英語で行われていました。学生の希望する研究対象が文学以外でも、とにかく日本語が読めるようになるために文学作品を使うのは、学生数がだんだん増えていってからも、相当長い間、学科の基本方針だったと思います。「英文学批評家としての夏目漱石」をテーマに博士論文を書き、来豪から10年後の1971年に博士号を取得。その年にハンターズ・ヒル(シドニー北西郊外)の家に移り、現在もそこに住んでいます。近所の人や大学以外の友達にも良い人びとに恵まれ、とても楽しく生活を送ることができました。

2018年6月7日、東京のオーストラリア大使館でリチャード・コート駐日大使からオーストラリア勲章と賞状を授与される松井さん。
左は大使夫人(Photo: The Australian Embassy Tokyo)
2018年6月7日、東京のオーストラリア大使館でリチャード・コート駐日大使からオーストラリア勲章と賞状を授与される松井さん。
左は大使夫人(Photo: The Australian Embassy Tokyo)

――2001年にシドニー大学を退官されるまで約40年間、オーストラリアにおける日本語教育と日本文学研究に長年、貢献してこられました。その功績が認められ、16年春に日本の瑞宝双光章、18年1月にはオーストラリア勲章(AM)を受勲しました。

来豪から数年経ったころ、母校の甲南大学から「戻ってこないか」という話も頂きましたが、オーストラリアでの生活が楽しくて、日本に帰るつもりはありませんでした。ただ、1994年は客員教授、その後数年非常勤講師として甲南大学(現在は常任顧問)で教えていましたし、日本とオーストラリアを行ったり来たりしていますので、「オーストラリアに骨を埋める」といった感覚はありませんね。

今年のオーストラリア勲章の受勲が発表された時はシドニーにいましたが、その後日本に行っていましたので、6月7日に東京の在日オーストラリア大使館で勲章を授与して頂き、日本にいるシドニー大学の教え子や友人など約10人を招待して昼食会を開いて頂きました。

瑞宝双光章を胸に(Photo:The Univer ity of Sydney Challis Bequest Society News, Edition 17, 2017)
瑞宝双光章を胸に(Photo:The Univer ity of Sydney Challis Bequest Society News, Edition 17, 2017)

――現在の主な活動について教えてください。

甲南学園の創設者で、企業経営者・教育者・政治家として明治・大正・昭和の激動期を生き抜いた平生釟三郎(1866年~1945年)という人物がいます。私は長年、平生が1913年から死去する終戦の年の11月まで書いた膨大な日記の編纂事業に関わっています。

平生は若くして東京海上火災保険のロンドン支店長、大阪・神戸支店長を務め、経営者として成功した後、甲南学園を創立して教育者としても尽力しました。川崎造船社長などを歴任する傍ら、ブラジル移民政策も推進しました。35年には貴族院議員となり、文部大臣を務めた政治家でもありました。

非常に愛国者であった一方で、リベラルな考えを持つ人物でもあり、経済面では当時から自由貿易主義を唱えていました。自国主義や保護主義が台頭する現在の世の中で、平生の主張が意味するところは大きいのではないでしょうか。

英語に堪能だった平生の日記の中には英文、英単語が多く出てきます。私は主に平生の日記中の英語、英文の翻刻に携わっています。平生は恐ろしく悪筆で、日記の編纂は非常に骨が折れます。普通はとても読めないような字ですので、慣れなければできない仕事です。

全17巻にわたる日記の刊行は、甲南学園の創立90周年記念事業の一環として約10年間にわたって続けられています。順次発行されていますが、来年には最終巻を発行する目標で作業を進めています。私を育ててくれた母校への恩返しと思って、お手伝いしています。

平生は一般にはほとんど知られていません。しかし、近代日本の黎明期に幅広い分野で功績を残した偉人として評価につながれば、非常にうれしいですね。

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