オーストラリアで今を生きる人 舟山精二郎さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.26 舟山精二郎さん

私は1本の木を植えただけ、実がなれば分かち合えばいい

海軍兵学校入学を目前に、故郷の福島県で終戦を迎えた。大学卒業後に大手商社に就職し、1961年に駐在員としてシドニーに赴任した。人生最大の挫折を経験した後、76年にシドニー北部に日本食料品店「東京マート」をオープン。後に食品商社「ジュンパシフィック」を立ち上げ、社員約300人の企業に育て上げた。創業40周年を迎えた今年、オーストラリアにおける日本食普及の先駆者として、日本の農林水産省から「日本食海外普及功労者」の表彰を受けている。 (聞き手:守屋太郎)

――日本で育った時代のことを教えてください。

1931年に福島県信夫郡飯坂町(現在の福島市飯坂町)の商家の次男に生まれました。幼い頃、二本松少年隊(幕末に二本松藩から出兵して多数の犠牲を出した少年兵部隊)の生き残りが近所にいましてね。彼らからよく幕末の話を聞いて『僕も大きくなったら兵隊にならなきゃいけない』と思っていました。

海軍兵学校の入試に合格して入学の準備をしていた時のことです。重大発表があると聞いて近所の人たちが実家の呉服屋のラジオの前に集まってました。玉音放送は雑音が大きくてはっきり聞こえませんでしたが、大人たちから「戦争が終わったようだ」と教えられました。

学生時代から今まで、とにかくありとあらゆるジャンルの本をたくさん読んできました。当時はヨーロッパ史の本の影響もあって、海外を見てみたいという気持ちが非常に強かったんです。親は医者にしたかったようですが、医者になったら海外には行けないと思い、福島高校(現在の福島県立福島高校)から慶應義塾大学の経済学部に進みました。大学時代、新宿から銀座まで家一軒ない焼け野原を歩いたものですよ。

――オーストラリアに来られたきっかけは?

当時、民間人で海外に渡航できたのは商社マンだけでしたので、卒業後は商社に就職しようと思いました。52年に江商(当時の日本の大手商社の1つ)に入社し、まず日本国内で紙の営業に携わりました。その頃に今の女房の妙子と知り合って結婚しました。

シドニーに転勤を命じられたのは61年ですから、もう55年も前のことになります。日本を旅立つ時、まるで私が出征するかのように、家族や会社の社員など約200人が羽田空港に見送りにきました。プロペラ機で香港、マニラ、ダーウィンを経由してやっとシドニー空港に辿り着きました。

当時のシドニーに日本食レストランは1軒もなく、私たち駐在員は皆、エリザベス・ベイ(シドニー東部)にあった日本人クラブという施設で晩飯を食べるのが日課でした。

市内の紙の問屋を回ってお客さんと仲良くなり、紙を売りまくって業績を伸ばしました。それが本社の社長の目に止まり、当時は3年で帰国するのが普通だったのですが、「もっと長くいろ」と命令が下りました。それをきっかけに66年に永住権を取得し、日本から家族を呼び寄せました。

ところが、67年に同じく大手商社の兼松が、江商を合併したんです。それを機に、当時の上司が独立して興した商社に私も合流し、引き続きシドニーで紙のビジネスに携わっておりました。しかし、71年にニクソン・ショック(当時のニクソン米大統領が米ドルと金の交換を停止すると発表)が勃発しました。急激な円高が進行したため、紙の商売が立ち行かなくなりました。会社からは帰国命令が出ましたが、子どもたちもオーストラリアの生活にすっかり馴染んでいましたし、シドニー北部に小さな家も建てていました。私はオーストラリアに残ることを決意して、退職願いを出したのです。

それから他の実業家と3人で紙の商社を立ち上げましたが、これがうまくいきませんでした。以前の上司から横槍が入り、在庫を二束三文で叩き売って撤退を強いられました。

来豪して間もない頃にゴルフ・コンペで優勝した舟山氏
来豪して間もない頃にゴルフ・コンペで優勝した舟山氏

私には一銭も稼ぎがなくなりました。商社時代に取引先だった印刷会社に頼んで、家内を工員として働かせてもらい、なんとか耐えしのぎました。私は刀の刃の上を歩くような人生を歩んできたと思っています。一歩踏み外して地獄に落ちればそれで終わりでした。

その頃、幼い娘が三輪車で転んで歯を折るケガをしたことがありました。私には歯の治療費さえ出せませんでした。私は娘に『大きくなったらダイヤモンドの歯を入れてあげる。お父さんはいっぱいお金を稼ぐから』と涙を流して謝りました。人生でこの時ほど辛いことはありませんでした。

でも、その必要はなくなりました。娘は後に歯医者と結婚したからです。夫がダイヤモンドの歯を入れてくれたんですよ(笑)。

――どのような経緯で、日本食品の小売店を始めることになったのですか?

その頃、シドニーに駐在してきた高校時代の同級生が、「何か儲かるビジネスはないか」と聞いてきたのが発端です。私は「日本人が増えてきているノース(シドニー北部)で、日本食品店を開いてみたらどうだ」とただ助言しただけでした。その時に見つけたのが、改装前のノースブリッジ・プラザ(現在も東京マートがあるシドニー北部のショッピング・センター)の古い物件でした。

ところが、オープンしてみるとお客さんは全然来てくれません。1日の売上はわずか20ドルくらいでしたが、5年間のリース契約を結んでいたので辞められません。同級生は「私は日本に帰るから、店を引き継いでくれないか」と言うんです。

押し付けられたようなものでしたが、『一文なしで何もしないでいるよりましだろう』と思って引き受けました。家内と私の2人だけで店を回しました。我が社の社員第1号は家内です。今から考えると、家内が社長で、私が社員だったのかもしれません(笑)。

――開店当初のビジネスはいかがでしたか?

やはりお客さんは来てくれませんでした。家内とあれこれ考えて、ひらめいたのがすき焼き肉でした。オーストラリアの精肉店には薄切り肉は売っていないから、すき焼き肉を売れば日本人のお客さんが必ず来てくれるのではないかと考えたんです。家内が出刃包丁で牛肉の塊を1枚ずつスライスして、私が袋詰めしました。土曜日の目玉品として販売すると大ヒットしました。毎日売ることになり、昼間は店の営業、閉店後は遅くまで肉の加工に明け暮れました。そのころは寝る間も惜しんで、1日18時間働きました。

そのうちに『小売だけでは面白くない。卸売もやってみよう』と考えるようになりました。当時、韓国人の移民が増えていたので、日本から唐辛子を輸入して韓国人社会に販売したらヒットしたんです。これが輸入・卸売業(現在のコア・ビジネス)の第1号でした。その後、ビジネスが軌道に乗ってきたので「ジュンパシフィック」という食品商社を立ち上げ、還暦を迎えるまで自分でバンを運転して商品を配送していました。

――やがてシドニーでは日系の駐在員や永住者が増え、東京マートを中心に日本人が集まってきました。観光客も増えて日本食レストランが相次いでオープンし、卸売の需要も拡大しました。さらに、今日では日本食はオーストラリア人に幅広く普及しています。会社が成長していく過程で、一番苦労したことは何でしたか?

オーストラリア政府の厳しい規制です。ある日、保健省の役人が突然、会社に来て、海草類を全て差し押さえていきました。海草にはヒ素が入っているからダメだというのです。海苔がないとすしは作れませんから、大変なことなりました。結局、私1人で巨額の訴訟費用を負担して、裁判に訴えることにしました。

公判で私は『日本人は長寿で世界屈指の健康的な国民だ。日本人の髪が黒くてきれいなのは、海草を食べているからだ』と主張しました。しかし、裁判官は『舟山は髪が薄いではないか』と言いました。私は『若い時に海草を食べなかったからこうなったんだ』と答え、法廷は爆笑の渦に包まれました。結局、海苔を輸入できるようになり、日本食業界の人たちから歓迎されました。

酒に対する規制も厳しいですね。日本酒をなんとか広めたいと思い、「シーズニング」(調味料)と称して販売したことがありました。しばらくすると、約20人の警官が店に乗り込んできて、日本酒は全て没収され、私も聴取を受けました。後日、罰金を払って、きちんとライセンスを取得して没収された日本酒の競売に参加しました。入札したのは私1人でしたので、しっかり買い戻しましたよ(笑)。

――2013年には、オーストラリア社会に貢献した移民の経営する企業に与えられる「エスニック・ビジネス・アワード」で、創設25周年のファイナリストに選ばれました。この11月には、日本政府から「日本食海外普及功労者」として表彰されました。これまでのオーストラリアでの半生を振り返って、思うことを述べてください。

創業40周年という記念すべき年に、日本政府からも表彰を頂いたことはダブルでおめでたいことだと思っております。また、オーストラリアと日本の両方で表彰を頂き、大変幸運な者だと考えております。

第1号の社員として我が社に入社し、公私ともに私を支え続けてくれた家内、会社を大きくしてくれた数多くの社員たち、窮地を救ってくれた恩人たちに深く感謝したいと思います。

福島県産食品のPRに取り組む舟山氏をインタビューした地元紙の記事
福島県産食品のPRに取り組む舟山氏をインタビューした地元紙の記事

自分が興した会社だから、生きている限りは仕事を続けていきます。現在は、私を育ててくれた故郷に恩返ししたいと思い、福島県産の食品や日本酒をオーストラリアに広めることに力を入れています。

私は会社という1本の木を植えただけです。その木に肥料や水をやるのは社員の役目。その木が育って実がなれば、それをみんなで分かち合えばいい。社員にはそう言っているんです。

そして最後に、この場を借りまして、東京マートとジュンパシフィックのお客様に心より御礼申し上げたいと思います。これまで40年間支えていただきまして、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

新着記事

新着記事をもっと見る

NICHIGO CHANNEL

新着イベント情報

新着イベントをもっと見る