オーストラリアで今を生きる人 嶋本信明さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.27 嶋本信明さん

演じることで視点が変わる目で語れる役者になりたい

15歳で家出してホームレス生活を経験した後、中華料理店や解体業者を経てアメリカに渡り、挫折を味わった。30歳の時にワーキング・ホリデーで来豪し、ヤクザ役で映画デビュー。それから14年、太平洋戦争末期の沖縄戦での米衛生兵の活躍を描いたメル・ギブソン監督の『ハクソー・リッジ』(2016年)に出演するなど、役者としての活動の舞台を広げている。(聞き手:守屋太郎)

――幼い時から海外で俳優になろうと考えていたのですか?

子どものころ、スティーブン・スピルバーグ監督のSF映画『E.T.』(1982年)を見て、「映画の中に行ってみたい」と考えたことはありました。でも、本当に役者をやるとは思っていませんでした。若い時はパンク・ロック(1970年代から80年代初期に流行した反体制のロック音楽)が好きで、バンドもやっていました。海外には興味はありましたが、夢のような存在でしたね。

生まれ育ったのは東京・池袋です。15歳になったら、誰の助けも借りずに1人で生きていこうと決めていたんです。15歳といえば昔なら「元服」を迎える立派な大人ですから。15歳になった年の10月、置き手紙1枚を置いて実家を後にしました。池袋にあった空家に何カ月か住みながら高校に通っていましたが、15歳では若すぎて誰もアルバイトで雇ってくれません。自販機の下からコインを拾ってご飯とキムチで飢えをしのぎ、公園の水道で体を洗っていました。

そんなある日、中華料理店を経営している友達の親が、住み込みで働かせてくれることになりました。僕にとって初めての仕事でした。18歳まで3年間、そこでお世話になりました。

解体業の仕事をしていた20代前半の頃、「日本には一生帰らない」と見栄を切って、一度アメリカに行ったことがあります。ところが、英語もしゃべれないし、何もつかめないまま遊んでいました。「これじゃいけない」と思い、グレイハウンド(長距離バス)の乗り放題パスでアメリカ中を回ったのですが、そのうち資金も底を付きました。なんとか帰りの航空券は持っていたので、非常に落ち込んで日本に帰りました。

帰国後、27歳の時に働いていた解体業者の社長が亡くなったのを機に、仲間と解体業者を立ち上げました。その頃、たまたま「NOVA」という英会話学校に行ってみたのですが、勉強がとても面白くて、夢中になりました。仕事の合間にリラックスできる癒やしの場所となりました。英会話学校の外国人の先生たちとも毎晩のように飲みに行き、英語力も一気に伸びました。

――オーストラリアに渡ったきっかけは?

英会話学校で仲良くなったオーストラリア人の先生の影響もあって、2003年にワーキング・ホリデー・ビザでシドニーにやってきました。30歳の時です。着いた日は、朝からシドニー市内のパブでビールを飲み、泥酔して宿泊先のホステルに戻ってきたのを覚えています。

仕事を探す前に旅行をしようと思い、メルボルンに行ったのですが、そこでたまたまアマチュアの映画制作者と知り合い「映画に出てみないか」と誘われました。それが、役者の道に足を踏み入れたきっかけです。インディーズ(自主制作映画)の作品で、裏切り者の逃亡者をメルボルンまで追いかけるヤクザの役でした。

その時、「これがやりたいことだ」と閃きました。同じ物をデッサンしても、描く人の見方によって絵は全く違ってきます。ある役を演じることで、自分の物の見方も変わってくることに気付いたんです。

――ワーキング・ホリデーの生活はいかがでしたか?

とにかく「ローカル(地元)の仕事しかしない」と決意して、求人サイトの募集などを手掛かりに手当たり次第、履歴書を送りまくりました。でも、就労期間が限られるワーキング・ホリデーの外国人を雇ってくれる地元の会社などなかなかありません。

仕事を探し始めて6カ月くらい経ったころでしょうか。あるオフィスにノーアポで履歴書を持ち込んだ時のことです。経営者が出てきて「君に何ができるんだ?」と聞かれました。実は何の会社かも分かっていなかったのですが、「一生懸命やるから仕事をくれ!」とひたすらアピールしたんです(笑)。すると、面白い日本人だと思われたらしく、「明日から来い」と言われました。仕事の内容は派遣のウェイターで、マルディ・グラのイベント会場のバーで働いたりしました。

ワーキング・ホリデーが1年で終わった後も、役者の仕事を続けたいという思いが強く、学生ビザでオーストラリアに残ることにしました。知り合った女性に俳優のエージェントを紹介してもらい、だんだん演技の仕事が増えてきました。

そのころはまだ、アメリカで成功したいという夢を捨てきれていませんでした。アメリカの留学先の学校を申し込んで準備をしていたのですが、夢はかないませんでした。2008年にリーマン・ショックが起こり、貯金していた豪ドルが急落したため、留学費用を払えなくなったんです。

いったん日本に帰国し、オーストラリア人女性と結婚してオーストラリアに戻ってきました。その後離婚し、当時から今まで働いているIT(情報技術)関連の会社で永住ビザを取得しました。役者だけでは食べていけないのが現実ですが、撮影スケジュールに合わせて休ませてもらえるので助かっています。

テレビ・ドラマ化を目指すSFサスペンス『アバンダンド』のヒロシ役
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日本兵や侍、ヤクザの役が多いため、剣道などの武道も修練している
日本兵や侍、ヤクザの役が多いため、剣道などの武道も修練している
映画『ハクソー・リッジ』のプレミアでレッド・カーペットを歩く嶋本さん
映画『ハクソー・リッジ』のプレミアでレッド・カーペットを歩く嶋本さん

――以来、映画、短編映画、コマーシャル、ドキュメンタリーなどさまざまな作品に出演しています。特に印象的な作品は?

第2次世界大戦中の強制労働を描いたアンジェリーナ・ジョリー監督(アンジー)の『不屈の男 アンブロークン』では、オーディションには落ちたにもかかわらず、アンジーが僕をそのシーンのスタンドイン(撮影準備のための俳優の代理)に使ってくれたのがうれしかったです。日本兵役の僕がオーディションに落ちたのは、英語をスラスラ話したからなんです。英語が流ちょうな戦時中の日本兵など現実感が無いですから。これまで一番の大役だったのは、太平洋戦争末期の沖縄戦を描いたメル・ギブソン監督の『ハクソー・リッジ』(2016年)ですね。この映画でも日本軍将校の役を演じました。

今力を入れているのは、『アバンダンド』(Abandoned)というドラマ作品です。オーストラリアの終末世界を描いたSFアクションで、「ヒロシ」という日本人の主要人物役で出ています。現在はパイロット版(公開前に試作される作品)の段階ですが、テレビのシリーズ化を目指しています。ぜひ注目していてください。

――演技をしている時、心掛けていることはありますか?

演じている物語の中のリアリティーを追求していきたいですね。目で語れる役者になりたいとも思っています。現実世界でも、いろいろな人がいる中で、たとえその人を理解することができなかったとしても、自分と違う人の物の見方を否定せず受け入れることは、役の広がりにつながると考えています。

これまでに演技の学校に通ったり、個人の先生のレッスンを受けたりもしました。撮影の現場では、監督の鶴のひと声で脚本が変わってしまうことがよくあります。そんな時、英語でアドリブができることが重要なんです。やはり日本兵や侍、ヤクザの役が多いので、昔からやっていた剣道や居合道だけではなく、最近は極真空手も習っています。

憧れの俳優は、ジャック・ニコルソンやロバート・デ・ニーロ、日本人なら柄本明や渡辺謙ですね。

――これまでのオーストラリア生活を振り返ってどう思いますか?

オーストラリアに来なかったら、役者の仕事はしていなかったでしょう。自分を受け入れてくれて、自分のやりたいことを応援してくれたオーストラリアの人たちに助けられました。自力で生きていくと強がって15歳で家出したくせに、これまでたくさんの人たちが支えてくれたことに感謝しています。

将来は、俳優業だけで食べていけるようになれば、それが一番いいのですが、とにかく演じることが好きで映画が大好きなんです。その情熱は『E.T.』から始まったので、いつかスピルバーグの映画に出演できれば本望ですね。

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