オーストラリアで今を生きる人 小路光男さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.28 小路光男さん

日本の二面性が反発し合い、エネルギーに昇華している

日本の大学・大学院で陶芸を学んだ後、1970年代に陶芸の講師としてオーストラリアの大学に着任した。以来、大学で陶芸を教える傍ら、陶芸家、画家、彫刻家として国内外で幅広い芸術活動を展開してきた。日豪関係の発展に貢献した功績が認められ、昨年8月には日豪友好協力基本条約調印40周年を記念した外務大臣賞の表彰を受けている。(聞き手:守屋太郎)

――なぜ陶芸家を目指したのですか?

将来は普通の会社員になるつもりでしたが、美術は得意だったので、趣味としては続けていきたいと考えていました。絵を描くことが好きで、物理や化学にも興味があり、釉薬(ゆうやく)を使う陶芸が面白いと思いました。そこで高校卒業後、京都市立芸術大学の陶芸科に進学しました。学士課程終了後も同大学の大学院に進み、1973年に修士課程を卒業しました。

陶芸の世界では、東京芸術大学は古風な伝統的な日本の陶芸に力を入れている一方、京都市立芸術大学はアバンギャルド(前衛的)なモダンなスタイルの作風を志向する傾向がありました。元々海外の文化や映画が好きだったのですが、大学には当時から外国人の学生が多かったんです。その影響もあって、「海外を見てみたい」と考えるようになりました。

――オーストラリアに渡ったきっかけは?

海外への好奇心から、大学院2年の時、オーストラリアとカナダ、アメリカの大学の講師職に応募したんです。当時、日本の陶芸技術は世界的に進んでいて、海外の大学で日本人の陶芸家の需要がありました。現在のモナシュ大学(メルボルン)で講師として2年間の契約で雇ってもらえることになり、1973年にオーストラリアにやって来ました。それが僕にとって初めての海外体験でした。

その後、シドニーの「ナショナル・アート・スクール」で半年、教鞭を取った後、今度はアメリカに渡りました。サンノゼ(カリフォルニア州)のサマー・スクールで教えた後、メルボルンで知り合ったイギリス人の今の妻と2人で、アメリカとヨーロッパを旅して回りました。将来はアメリカかオーストラリアに行きたいという思いはありましたが、それからいったん日本に帰り、大阪の陶芸教室で1年半、教えていました。

オーストラリアに再び戻ってきたのは、78年のことです。シドニー大学の「シドニー・カレッジ・オブ・アーツ」(芸術学部)でフルタイムのレクチャラー(講師)として就職することになりました。アメリカでも仕事の話があって、面白いと思いましたが、より新しい国であるオーストラリアは可能性が大きいと考えました。「そろそろ落ち着こう」という思いもありましたね。

これまで40年以上にわたり、オーストラリア国内だけではなく海外でも幅広く活動してきた
これまで40年以上にわたり、オーストラリア国内だけではなく海外でも幅広く活動してきた

――以来、2007年まで29年間にわたってシドニー大学で講師を務め、現在も名誉準教授として大学にスタジオを構えています。その傍ら、オーストラリア国内と海外で43回、個展を開くなど幅広い活動を続けてきました。創作活動のターニング・ポイントになった体験は何ですか?

本来は作ることの方が好きなんですが、それだけでは食べていけません。教師を続けながら、アーティストとして創作活動を続けてきました。オーストラリアは「大きな島国」ですから、ずっとここにいると、外の刺激が欲しくなってきます。内なる欲と格闘しているのです。

36歳の時、イタリアの国際陶芸展に合わせた「アーティスト・イン・レジデンス」(ある場所に一定期間、芸術家を招へいして芸術活動を行わせるプログラム)の1人に選ばれたことがあります。海外5人、イタリア国内5人のアーティストと一緒に1カ月間、創作活動を行い、その後に展覧会を開きました。

以来、チェコやハンガリー、ポーランドなどの東欧諸国、トルコ、イスラエルなどさまざまな国や地域を訪れ、それぞれの土地や海外のアーティストと交流したり、個展を開いたりしてました。

――作品は、在豪の著名シェフ、和久田哲也さんや東公孝さんのレストラン、「れんが家」(ノース・シドニー)、「カタリーナ」(ローズ・ベイ)、「レストラン16」(ニュートラル・ベイ)などにも置かれていますね。陶芸作品だけではなく、絵画や彫刻の作品も幅広く手がけてきました。何から創作活動のインスピレーションを受けるのですか?

シドニーにある小路さんの工房
シドニーにある小路さんの工房
陶芸や絵画だけではなく彫刻作品も手がけている
陶芸や絵画だけではなく彫刻作品も手がけている
独自の技法で創られる「セラミクス・ペインティング」
独自の技法で創られる「セラミクス・ペインティング」

陶芸は、釉薬を塗って窯で焼くと色が変わる。そのプロセスが面白いんです。取り組んでいる絵画作品は、その陶芸の技法を応用して独自に編み出したものです。僕はこれを「セラミクス・ペインティング」と呼んでいます。

硬質の建材に金属の泊を貼り、クレヨンや色鉛筆で彩色した後、バーナーで焼くんです。すると表面が化学反応を起こし、色が変化して、思ってもみなかった作品が出来上がります。

陶器の技法を応用すると、いろいろなことが出来ます。1つのことだけをやっていても飽きるので、陶芸、絵画、彫刻と、さまざまな分野にチャレンジしています。

インスピレーションについてはよく質問されるのですが、何か具体的なイメージが沸いてくるわけではありません。読んでいる本の言葉、風景といったものが触媒になって、ただ「ピン」と来るだけですよ。

――長年、オーストラリアの西洋社会で活動されてきたわけですが、日本人としての感性や価値観が創作活動に影響を与えたことはありますか?

僕はもともと大阪生まれの「浪速(なにわ)っ子」です。大阪は戦争で焼け野原になり、戦後に再建された新しい街です。一方、大学に通った京都は、空襲を免れたため伝統的な日本が残る半面、前衛的なカルチャーも息づいています。

また、日本には、禅寺に見られるような無駄なものを削ぎ落したシンプルさと、反対に日光東照宮のようなデコラティブ(装飾)なものが、共存しています。現代社会においても、日本と西洋の2つの顔を持っています。

そうした日本文化の「二面性」みたいなものが、自分の中で反発し合ってエネルギーになっている。僕はそう思っているんです。

――これまでのオーストラリア生活を振り返ってどう思いますか?

若い時はとにかく世界を見たくて、その後に自分の人生を決めればいいと思っていました。26歳の時にオーストラリアに初めて来てからアメリカやヨーロッパを回り、またオーストラリアに戻って、ラッキーな時に自分の居場所を見つけることが出来ました。日本で生まれて教育を受けて、オーストラリアが自分を育ててくれたと思います。家族や友人にも恵まれて幸せだと考えています。

70歳になりましたが、これからももっと面白いことをやっていきたいですね。以前は、歳を取ると茶道具のような小さな作品に傾倒するのかと想像していましたが、今は逆に、自分よりもはるかに大きな作品作りに挑戦したいんですよ。轆轤(ろくろ)で小さな物をたくさん作って、それを組み合わせて巨大な作品を作るとか、いろいろ思案しているところです。

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