オーストラリアで今を生きる人 ラドクリフ小林敦子さん

オーストラリアでを生きる人

オーストラリアの日系コミュニティーで今を生きる、さまざまな人のライフスタイルを追うコラム。

Vol.30 ラドクリフ小林敦子さん

家族や友人との時間が楽しい、そんなワインを造りたい

ワイン造りのコンサルタントなどを経て、18年前に来豪。大手ワイナリーでワインメーカーとして働いた後、いったん帰国して宮城県の蔵元で日本酒造りの経験を積んだ。2013年には、NSW州東部アッパー・ハンターで、自身の名前を冠したワイン・ブランド「スモール・フォレスト」(Small Forest)を立ち上げている。(聞き手:守屋太郎)

――幼いころから「海外でワイン造りをしてみたい」という夢を持っていたのですか?

そんなことは全く考えていない普通の子どもでした。地元の女子校を卒業後、東京農業大学短期醸造科に進学しました。その後、協和発酵工業(医薬品の製造や醸造業などを手掛けていた日本の大手メーカー、現在の協和発酵キリンの前身)に入社し、新商品の試験、日本酒やワインなどのサンプルの分析などを担当しました。

そして、友人からワイン造りの誘いを受けて、栃木県にある「こころみ学園」という知的障害者厚生施設の親たちが立ち上げたワイナリーに転職し、障害者と一緒に生活しながらワイン造りをしました。当時から新しいことにチャレンジしている会社で、先進的なワイン造りを行っていた米国のカリフォルニア州から多くのことを学びました。

そこで3年働いた後、仲間3人でワイン造りのコンサルタント会社を立ち上げました。経験と知識を得るため、カリフォルニア州のナパやソノマに何度も出掛け、1990年にはフランスでワイン造りを初めて手掛けました。ボジョレー、ミュルソー、ボルドーを回り、ワイン造りに取り組む人たちの生き方に感銘を受けました。

――オーストラリアに来たきっかけは?

その仕事の一環で、95年から毎年3~4カ月間、オーストラリアにも来るようになりました。オーストラリアのワイン造りも世界的に進んでいましたし、日本と収穫時期が逆だったのでタイミングも良かったんです。

そうしているうちに、アッパー・ハンターにあった大手ワイナリー「ローズマウント・エステート」に誘われ、99年にワインメーカーとして働き始めました。日本の会社とは「1年間しっかり修行して、力を付けて会社に戻る」という約束でした。最初は大変な仕事量と英語に慣れるだけで精一杯でしたが、次第に醍醐味を感じるようになり、日本へは帰らないと決意しました。

このワイナリーで7年間、勤めました。厳しい上司の下での長時間労働でしたが、当時のオーストラリアのワイン業界は活気があり、勢いのあるワイナリーで働くのは楽しかったです。私はリザーブ・ワイン・ワインメーカーとして、価格帯の高いワインのブドウから瓶詰めまでの工程管理を担当しました。畑にも出ますし、セラーにも頻繁に顔を出し、仕事をチェックしたり、試飲したりしました。3万樽に入るワインの面倒を見ていたので、例えばブレンドの際などは何度も納得がいくまで1日に200~300樽の試飲をしました。

働く中でのチームワークは非常に重要でした。収穫時期になると、他州や海外からもたくさんの人が集まり、普段の約2倍のスタッフが24時間体制で働きます。1日12時間勤務の2交代制で、私たちワインメーカーの実働時間は15時間くらいに及びます。服や髪はジュースや発酵中のワインでベタベタ。赤ワイン造りが始まると、手も真っ黒。疲れ果てて家に帰ると、とにかくシャワーを浴びて、眠りたい、テレビも見ない。そんな毎日が3カ月以上続くのです。

――2009年から一時帰国し、宮城県の酒蔵で仕事していたそうですね。ワインから日本酒の世界に入ったきっかけは?

「小林」の家名をブランドに冠した「Small Forest」のワイン
「小林」の家名をブランドに冠した「Small Forest」のワイン
地元の販促イベントで他社のワイナリーのスタッフと
地元の販促イベントで他社のワイナリーのスタッフと

和久田哲也さん(シドニーの高級レストラン「テツヤズ」のオーナー兼シェフ)のご紹介で、日本酒のプロモーションのためにシドニーに来られた日本の蔵元さんのイベントに声を掛けて頂き、交流が始まりました。08年末、浦霞醸造元(宮城県塩竈市)の佐浦社長からお仕事の話を頂き、迷わず日本に行く決心をしました。

単身赴任で1年半、塩竈に住みました。私にとっては、蔵元の方たちにお会いするのは夢のような経験でした。学生時代は日本酒ばかり飲んでいました。日本酒業界への思いを諦め、ワイン業界に入ったのですが、オーストラリアの片田舎にまで来てこのような機会に恵まれたことは本当に幸せでした。

佐浦社長に「蔵に入りたい」とお願いしたところ、承諾してくださいました。酒造りの工程の各部署を1週間ずつ経験する研修を経て、日本酒の「酒母」を造る担当「モト屋」になりました。もちろん、大先輩のお2人と一緒です。酒造りの10月から4月までは蔵人として働き、それ以外は企画、営業、外国からのお客様の案内などのお手伝いをしました。「南部杜氏」(浦霞が所属している杜氏集団)の研修にも参加させて頂き、無事に修了しました。

――日本酒造りの経験をどのように生かしていますか?

現場で実際に経験しないと分からないことばかりでした。「技術」よりもむしろ「物」が造られる風土や、長年続いてきた伝統といったものに、大変興味を持ちました。

塩竈は松島湾の奥にあり、大きな漁港があります。山も近く、海と山の幸に恵まれています。東北一の一宮神社「塩竈神社」もあります。町では、花屋さん、八百屋さん、果物屋さん、魚屋さんといった小さな商店が、まだまだ人びとの生活の中に息づいています。

新鮮な魚介類や野菜が豊富で、人びとが神様を大切にしながら生活しているのを見て、本当の豊かさを実感しました。東北の夏は短く、冬の寒さは厳しいですが、そこで生きている人たちの温かさは特別です。「このような環境で生活している人たちが造るから、この日本酒はこういう風においしいのだ」と感じました。

物づくりには、そうした豊かさが大切なのだと考えました。技術も大切だけれど、それだけではない。お金や物ではなく、気持ちが豊かでなくては、良いものが生まれないのではないか。そう考えるようになりました。

そして、ワインは所詮、ただの飲み物でしかない、ということを肝に銘じるようにもなりました。品種や造り方、土壌、気候といった薀蓄よりも、一番大切なのは「飲みやすい。おいしい」と感じることでしょう。ワインのある生活は、良いものだと思います。ワインがあることで、食事がおいしくなったり、家族や友人を囲んでの時間が楽しくなったり。そうなれるワインを造りたいと思います。

仕事で疲れ果てた時に見る美しい夕陽。満天に広がる星空。雨が降った後の辺り一面の緑……。そうした美しい情景を大切に思う気持ちも、農業に携わる者としては必要だと思いますね。

酒造りの経験をきっかけに、12年からロンドンのワイン・コンペ「インターナショナル・ワイン・チャレンジ」で、日本酒のジャッジをしています。15年からは、ワインのジャッジも始めました。世界中のワインを、世界中の経験あるジャッジたちと見ることができるのはすばらしい経験です。

――13年に自分のブランドを立ち上げることになった経緯は?

12年後半から、先代オーナーのワイナリーで働き始めました。その直後にオーナーが土地を売却したんです。この周辺には良質の石炭が採れる大きな炭鉱が幾つもあり、ワイナリーの土地を購入したのも鉱山会社でした。この辺りに点在する露天掘りの火力発電用の石炭の鉱山ではなく、製鉄用の原料炭を地下で採掘するのが目的です。

彼らは「鉱業と農業の共存」を目指しています。買収したこの畑でブドウ造りを続けていくため、前のオーナーが去った後、「ここで自分のブランドを立ち上げる気はないか?」と話を持ち掛けてきたのです。ワイン業界の景気があまり良くない上に、資金もないので、迷いましたが「小さくても良いからやってみよう」と考えました。

アッパー・ハンターは、オーストラリアのワイン造りの発祥地です。この産地を大切にしたいという思いもありました。ローズマウントがここから撤退したのを機に、ブドウ畑やワイナリーも減り、少々寂しく見えますが、今でもすばらしいブドウが栽培できる産地なのです。

この畑からブドウを購入することなどを条件に契約書を交わし、ワイナリーとセラー・ドアをリースで運営しています。ブドウ畑は、鉱山会社が管理していますが、栽培家にコンサルタントを依頼し、社員を雇い、チーム一丸となって、より良いブドウ造りのために努力しています。

――それからの4年間で一番苦労したことと、最もうれしかったことは?

1年目の14年、近くの国立公園で山火事が発生し、ブドウの収穫前に「バック・バーニング」(延焼を防ぐために、周辺部の山林を人為的に焼き払う作業)が行われました。ブドウに煙の害が出たため、収穫を断念し、非常に辛い思いをしました。

会社を始めて1年目のビンテージの出荷を断念する余裕はありませんでしたので、やむを得ずブドウを他の産地、オレンジから購入しました。幸い、収穫間近にもかかわらず良い栽培家から質の高いブドウを買うことができました。特に、その年の赤ワインを造ったシラーズのブドウはすばらしく、それから毎年、高い評価を頂いています。

一番うれしいのは、ワインができあがって、お客様に見て頂いて「おいしい。飲みやすい」と言って頂けた時です。そして、ワインを買って頂けたら、「本当にありがたい。とてもうれしい」と感じます。

毎年、天候の違いやブドウの違いによって、ワイン造りの条件は全く異なってきますので、その中で、経験や知識をどう生かすか。対応できるのか、昨年よりもおいしく造れるだろうかなど、常に私の力量が試されています。

100パーセント満足できるワインというものは、なかなか造れません。でも、毎年、最善と思える方法でワインを造ることができることに喜びを感じています。今後は、もっともっとおいしいワインを造れるようになりたいですね。

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