第2回 幕末維新期に欧米人に学ぶ

日豪貿易120年
兼松房治郎(25歳)、明治3年(1871年)横浜にて(両が円と改められ、断髪廃刀令が出たのは翌年だった)

集中連載 日豪貿易120年

日豪貿易のパイオニア、兼松房治郎

-我れ、国家に裨益せんと欲す-

第2回 幕末維新期に欧米人に学ぶ

寄稿=曾野豪夫
 

II 幕末期の丁稚「房公」 II
 兼松は明治維新の23年前、弘化2年、1845年(敗戦の100年前、阿片戦争の数年後)、大阪江之子島で生れた。間もなく父が出奔して音信不通となったので、母親の実家伏見と再婚先で少年期を過ごした。安政3年(維新12年前)、満11歳の時に義父が病死したので、丁稚奉公に出ることになった。伏見や京都で醤油味噌屋、乾物問屋、ローソク鬢付け屋などで語るも涙、聞くも涙の艱難辛苦、どん底の丁稚生活が数年間続いた。その時の手指の凍傷の痕は、生涯治癒しなかった。その後、大坂の米屋に奉公に出たが、領収証もろくに書けず、無学を恥じる毎日だった。16歳、慈母が病死。

日豪貿易120年
開業第1歩の神戸・兼松商店 明治22年(1889年)。数名でのスタートだった(帝国憲法が発布された年)

II 江戸で仏式陣法を II
 ある日、米屋の主人から、旗本である長崎奉行・岡部駿河守の用人、大野新右衛門の世話を1週間するように命じられた。その縁を頼りに翌年、無謀にも江戸に下り大野を訪問して、何とか駿河守の屋敷の門番の手伝いにしてもらった。よく気が付く兼松は、駿河守の子息の中小姓に引き立てられ、武芸や学問のお供をする身となった。そして、幕府方で銃術や砲術の訓練を受ける機会を得、貯金をはたいて足軽(サンピン=年俸三両一分)の株を買って、二本差しの武士の端くれとなった。19歳で筑波の役に幕府方で出陣し、小隊長に抜擢された。江戸に帰陣してun、deux、triosとフランス式軍事教練を受け、下役並(足軽のちょっと上)に昇進した。西洋人と接する最初の機会だった。兼松は考えた。「自分はさらに武芸に励み、フランス語も勉強すれば、大隊長、連隊長にもなれるかもしれない。しかし、異人の下で同胞相討つような事態ともなれば、それは己れの人生の目的ではないはずだ」と。 兼松は“武士はや~めた”と刀を捨て、文明開化の槌音高い横浜で商業事情を調べて、いったん大坂に戻った。慶応2年、第2次長州征伐に際して、伏見の清酒を満船で長州に持参して相当の利益を上げた。この時、伊藤忠兵衛(伊藤忠・丸紅の創始者)も反物を満船で馬関(下関)に輸送して1,500両を得た。両者はどこかで会っていたかもしれない。兼松はしばらく茨木で寺子屋の師匠をしながら、幕末動乱の行く方を眺めていた。

II 明治維新、横浜で英語を II

日豪貿易120年
シドニー支店開設案内の大阪朝日新聞広告。明治23年(1890)4月22日。大阪毎日新聞、時事新報、中外物価新報、名古屋金城新報、西京日の出新聞、神戸又新日報、岡山山陽日報、豊後大分日報などにも掲載された(教育勅語が発布された年)

 横浜に出た兼松は、商館貿易により繊維・雑貨の売り込みを、次いで新開港地である兵庫と新潟で2年半、石炭、綿、砂糖、鉄などを輸入し、旧加賀藩などに売却して相当の資金を蓄えた。 そして、横浜に舞い戻って蚕卵紙(たねがみ)の商館への売り込みで巨利を得た。当時、トルコ、イタリア、スペインなどで蚕卵紙が病原菌に侵されて全滅したため、日本製品をヨーロッパの商館がどんどん買い進んだのだった。 然るに好事魔多し、明治3年普仏戦争が勃発、蚕卵紙相場はあっという間に大暴落して25歳で無一文となってしまった。 心機一転、兼松は横浜で宣教師バラー夫妻にone、two、threeとスペリング、聖書、英文法などを腹を空かせながら学ぶ。バラー師は賛美歌の和訳を手がけ、またヘボン師夫妻と日本基督協会を設立した人物である。明治4年、横浜外国語学校が開校したので兼松は1期生として入学した。
II 三井組銀行部 II
 明治6年、大阪で職探しをしたり、米国行きを模索していた兼松は、ある日神戸に向かう船中で、外国語学校の恩師・伊藤弥次郎先生(後初代鉱山局長)に会った。そして、三井組の三野村利左衛門と西邑虎四郎の紹介を受け、三井組銀行部大阪分店に入社し、28歳から丁稚同様に3年間一生懸命に働き、一躍役付に引き立てられた。 明治8年には、明治天皇にNSW州政府から羊毛が5箱献上されたが、市しせい井人の知るところではなかった。明治9年、兼松は三井元之助の代理として堂島米商会所設立に参画して初代肝煎(専務理事)となり、2年後33歳で大阪商法会議所(初代会頭五代友厚)の初代肝煎に就任した(筆者の母方の曽祖父、永見米吉郎は同年大阪株式取引所の初代肝煎に)。 兼松は8年間勤めた三井組を惜しまれつつ、36歳で退職した。

オーストラリア調査旅行

日豪貿易120年
1890年、シドニーから神戸港に初めて羊毛を輸送した「Chingju号」

 その後、兼松は大阪商船の設立に参画し、明治17年創立、取締役運輸主管に就いた。明治20年、大阪日報(翌年大阪毎日新聞と改題)を買収して社主兼主幹となった。 ある日、石油ランプの下で社説や記事の下調べをしている時に、日本からオーストラリアに米が輸出されており、羊毛は世界一の生産国で、地下資源も豊富であることを知った。商館貿易で散々屈辱を味わった経験のある兼松だが、まだ日本人が手をつけていないオーストラリアと日本との直接貿易の可能性についての調査を思い立った。思い立ったら行動は早い。新聞社経営を友人に託して、その年のうちにシドニー、メルボルンへ1人で旅立った。到着した翌日には、「濠洲通信」第1報を新聞社に送った。その後、同通信は6カ月間に77回にわたって連載された。1カ月間に11回のペースである。今でいうならJETROの調査報告書の如く、統計を含み、広範囲にわたって日豪間の輸出入可能品目を一々詳述したのである。本来は自分自身の将来のビジネスのために秘匿しておくべき内容であるにもかかわらず、兼松が情報のすべてを新聞紙上で公開したことは驚きである。しかも、統計は数量の端数を切り捨てず、金額はポンド、シリング、ペンスに至るまで実数で公表しており、心が広く実直な兼松の面目躍如たるものがある。アジア各地の寄港地では、欧米列強の植民地政策とヨーロッパ近代産業による高品質の製造品、西洋式近代ビルディング、貿易、運輸、金融業などの組織的発展を目の当たりにした。兼松は、近代的な商工業システムから遅れ「安かろう悪かろう」の製品を売らざるを得なかった日本の現状に切歯扼腕したのだった。こうして大阪に帰った兼松は、すべての資産をつぎ込んで明治22年(1889)、121年前に神戸で「日濠貿易兼松房治郎商店」を開業し、翌年シドニーに支店を登録したのであった。(次号に続く)

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