【新連載】日系コミュニティーで活躍ローカル人・インタビュー

ローカル人インタビュー

オーストラリアの日系コミュニティーで活躍するローカル人に話を伺った。

ホポイ・タイオネさん
Hopoi Taione

高い山はない。一番高い山は我々の心の中にある

ラグビーの強豪国として知られるトンガ王国で生まれ育ち、1980年代に大東文化大学(大東大)に留学した。大東大と三洋電機でラグビーのスター選手として一世を風靡(ふうび)し、日本代表選手としても活躍。2019年ラグビー・ワールド・カップ(W杯)に向けてまい進する日本ラグビーの礎を築いた。現在はシドニーで会社経営に携わる傍ら、講演活動などを通して日本ラグビー界の発展を支えている。(聞き手:守屋太郎)

――幼い頃からラグビー選手として活躍する夢を抱いていたのですか?

トンガ本島(首都ヌクアロファがあるトンガタプ島)で、7人兄弟の末っ子として生まれました。子どものころは、日本の男の子が草野球を楽しむように、ラグビーは遊びでプレーする程度でした。決して裕福な家庭ではなかったので、必死に勉強して医師として身を立てようと考えていました。そのためにはトンガを出て、オーストラリアやニュージーランドなどの英語圏で教育を受けるのが通例でした。そんな時、大東大の先生がソロバンを広めるためにトンガに来たんです。飛行機でたまたま席が隣になった当時のトンガの文部大臣に、大東大で留学生を受け入れたいと伝えました。それで、トンガ高校で成績が優秀だった僕に、奨学金の面接を受けてみないかという話が来ました。

当時のトンガでは、一般的に日本と言えば「サムライ」や「空手」のイメージしかなくて、英語圏で教育を受けさせたいと考えていた家族や親戚は皆、日本への留学に反対しました。でも、僕は何か人と違う道を歩んでみたかった。当時のトンガ国王も「トンガと日本の架け橋になれ」と背中を押してくれました。

――慣れない日本での大学生活はいかがでしたか?

1980年に日本に渡りました。言葉ができないと何もできないと思いましたので、最初は必死で日本語を勉強しました。2年後に経済学の専攻に進み、大学の弁論大会で優勝しました。本格的にラグビーをプレーした経験があったわけではないのですが、大学チームの試合には出させてもらっていました。後に日本代表の監督になる岡先生(故・岡仁詩さん)がたまたま試合を見に来ていて、「ホポイをナンバー・エイト(フォワード8人のうち最後方に構えるリーダー的なポジション)にさせろ」と言ってくれ、来日2年目の年の10月に日本代表に選ばれたんです。ラグビーのために留学したわけではなかったので驚きましたが、厳しい練習を重ねるうちにだんだん慣れてきて、体もできてきました。父がスポーツマンだったので素質はあったのかもしれません。こうして日本でのラグビー人生が始まったのです。

ラグビーは他の多くの競技と違って、外国人が他国の代表選手になることが認められています。僕は外国人として初めて日本代表に選ばれました。「自分の汗を流した国が自分の国です」と言って、桜のエンブレムが胸に輝く日本代表のジャージを着ることに誇りを持っていました。

――その後、社会人として日本ラグビーの発展に貢献していきます。

三洋電機のジャージを着て活躍
三洋電機のジャージを着て活躍

当初、卒業後はトンガに帰る予定だったのですが、日本の会社員生活も経験したいと思うようになりました。当時のトンガの副首相の紹介もあって、1986年に三洋電機に入りました。当時は今のようにプロ・リーグはありませんでしたから、午前8時から午後5時までは日本の普通の会社員のように仕事をし、午後6時から午後9時くらいまでラグビー部で練習するという毎日でした。ラグビーの練習があるのでどんなに忙しくても残業はありませんでしたが、毎朝の「地獄の朝礼」に始まり、厳しい上司にしごかれました。日本の過酷な会社員生活を経験してチーム・ワークというものを身に着けることができました。その基礎があるからこそ、今になってオーストラリアの白人の世界で戦うことができるんだと思います。

僕はトンガで生まれ、日本で育ち、今はオーストラリアに住んでいます。日本では夢のような経験をさせてもらいました。決してラグビーだけではなく、日本は僕にさまざまな道を開けてくれたんです。大学や社会人時代にラグビーをプレーした人たちは、味方チーム、敵チームにかかわらず今でも交流があります。日本に行くと、昔のようにお酒を飲んで盛り上がります。そうした仲間たちも僕にとっては貴重な財産になっています。

僕の後も、トンガの後輩たちが日本のラグビー界で活躍するようになりました。自分が壁を壊し、外国人選手が活躍するための橋を作ったと自負しています。

――オーストラリアに来たきっかけは?

大東大で5年過ごした後、三洋電機で5年プレーしました。合計10年日本で過ごし、僕の「商品」としての価値を後輩に明け渡す時が来ました。三洋電機の在豪現地法人だったサンヨー・オーストラリアに転勤する形で、1990年5月に来豪しました。テレビや冷蔵庫などの商品を現地の代理店に販売する事業を担当しました。

サンヨー・オーストラリアでは2000年まで10年間勤めました。その後スポーツ関係の仕事を経て、現在は、従兄弟がシドニーで経営しているモデルや俳優を派遣する代理店のビジネスを手伝っています。その傍ら、日本各地で講演を行い、自分の日本での体験を語ったり、チャッツウッド(シドニー北郊)があるウィロビー市と東京都杉並区の姉妹都市交流をお手伝いしたりしています。南太平洋のラグビー選手をオーストラリアや日本、欧州に紹介する事業にも携わっています。

――日本ラグビー界の外国人選手のパイオニアとして、W杯に向けて活躍している日本代表に何かアドバイスはありますか?

現在の日本のラグビーはプロ・リーグになり、スキルや体力面は非常に向上しました。ただ、日本の選手には「日本の考え方、故郷の心に戻れ」と言っているんです。「パスタではなくて、コメを食べろ」と。トンガ代表の選手がタロイモを食べて力を付けているように(笑)。サムライの心を大切にして、もっと日本代表としてのプライドとハングリー精神を持って、国のために勝って欲しいですね。

スキルの面では、オーストラリアやニュージーランドのマネをしても、出遅れるだけです。日本選手の強みは、足の速さにあります。俊敏性を生かした戦い方が決め手になると思います。

――これまでの人生を振り返って思うことは?

少年時代のホポイさん
少年時代のホポイさん

トンガには「高い山はない。一番高い山は我々の心の中にある」という言葉があります。昔の日本人は精神面でタフでした。世界で対等に張り合っていくには、日本武士道のハートを持ってやらないと勝てないと思っています。僕もそのことを日本から学びました。

三洋電機時代、日本代表とスコットランド代表の遠征試合で負傷し、試合中に生死をさまよったことがあります。首を大けがして足が全く動かなくなりました。担架で運ばれながら、僕は「もしこの世界での私の義務が終わったのなら、どうぞ私の命を持っていってください。でも、もし希望が残っているのなら、私を歩かせてください」と神様にお願いしました。幸い、レントゲンを撮ったら首は問題ありませんでした。日本に帰ってからベンチで試合を観戦していた時、これまでと違う景色が見えてきました。「けががあったから人生を考えることができたんだ。この体験に感謝しなくてはいけない」と思うようになりました。

現在は、トンガの若者たちを日本に留学させて、新しい文化を経験させるお手伝いもしています。私を生んでくれたトンガと、育ててくれた日本に恩返ししたいと思います。

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