マーベラス・メルボルン「中国からの移民」

MARVELLOUS MELBOURNE マーベラス・メルボルン

メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。

第12回 中国からの移民

中華門「天国への門」
中華門「天国への門」

メルボルンの歴史の中で、中国からの移民の活躍は見逃せない。1850年代のゴールド・ラッシュ期は、中国清朝末期に当たり、多くの中国人がビクトリアにやって来た。

その中で多数を占めたのが、イギリスの植民地と化した香港や広東などのカントンデルタ地帯からの若い独身男性であった。

彼らは、経済的な困窮と中国政治の混乱により家族を中国に残して移民してきたので、成功して中国へ帰ることを夢見ていた。

ユーシップ協会、ナンポンスーン協会など多くの共済会が出身地、ビジネスなどを基にメルボルンの中国人社会で形成され、宿屋、信仰、面会所の場所を提供した。

ナンポンスーン協会ビル
ナンポンスーン協会ビル
中国人用簡易旅館(現在は中華料理店)
中国人用簡易旅館(現在は中華料理店)
春節(中国正月)
春節(中国正月)

メルボルン中心部のリトルバーク通りにあるチャイナタウンは、金鉱山で働く中国人のための宿屋、鉱山で使用する道具の販売店、食料品、医療品などの商業の中心地として発展した。

急増する中国人に驚いたビクトリア植民地政府は、1855年に入国する中国人に大きな税金を課す政策を実施した。そこで、ビクトリアに入国することが出来ないため、中国船は隣の南オーストラリアの港町ローブに入国した。数年間で1万6,500人もの中国人がローブに到着して、バララットやベンディゴなどビクトリアの金鉱山地区まで約320キロの距離を歩いていった。

金鉱山で貯めた資金は、メルボルンの特にチャイナタウンへと還流し、中華街やメルボルンの発展に大いに寄与した。

初期の中国人たちは主に道教信者であったが、オーストラリア社会への同化のためキリスト教へ信仰を変えた人も多く、そのためチャイナタウンには中国的な概観を残したキリスト教会もいくつか現存している。

1870年代からのマーベラス・メルボルンと言われた繁栄の時代に、チャイナタウンも同様に繁栄した。しかし、1901年から実施された白豪主義の時代に中国人は標的にされて再度、苦難の時代に直面した。

メルボルンのチャイナタウンには5つの中華門がある。4つはリトルバーク通りをまたいで建っているが、1つだけ通りに並行しているものがある。メルボルンの姉妹都市、中国江蘇省から寄贈された「天国への門」である。ここがチャイナタウンの中心地、コーヘン・プラザで、奥には中国の偉人「孫文」の銅像や中国人歴史博物館がある。

中国国民党メルボルン本部も近くに現存する。孫文が活躍していた1900年代前半、オーストラリアの首都はメルボルンであり、清国の在オーストラリア中国大使館はメルボルンにあった。中国大使館は、1912年に中華民国に引き継がれ、49年に中華人民共和国に引き継がれた。

歴史上、数多くの苦難を耐えて、中国人たちはメルボルンの社会に根付いている。中国正月(春節)の際には多くの客が中華街を訪れ、中国の文化や料理を楽しんでいる。



文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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