老いらくロマンス

極楽とんぼの雑記帳

エッセイ197
ブレア照子
イラスト・タイトルデザイン:森本順子

老いらくロマンス

 腹を立てているのか、心に深い傷が刻まれているのか、暗く深刻な表情をした男が向かいの部屋に入居した。プライバシーについては十分注意を払って書くようにと長女に厳しく言われているから、登場人物の名は架空の頭文字で書く。新入居者の名を”A”とする。Aの容貌は品が良く見えた。年齢は70歳後半だろうか…。容姿の方は贅肉ゼロで引き締まっているせいか60代に見える。住居者の多くはwalkerと呼ぶ四輪車を押すか杖をついているが、Aは利用していない。顔の皺こそ深いが故障のある老人には見えない。それがなぜここに入居したのか不審に思ったが、理由はすぐ分かった。強度の認知症に罹っているのだ。

 Aが入居した翌朝のこと、朝食をとるべく廊下に出ると、Aが呆然と部屋の入口に立っている。「お早う」と声をかけると片手を耳に当てた。補聴器をつけているらしい。「ダイニング・ルームに行くんでしょう ? 」と訊くと強張った表情になり、押し殺したような声で「分からない。自分が誰なのか、何をしにここへ来たのか全く分からない」と呟いた。
「さあ、食事に行きましょう。私が案内して上げます」と促すと、強張った表情が弛んだ。ダイニング・ルームの入口で「照子ありがとう、迎えに行こうと思っていました」とスタッフが言い、彼の手をとって食卓に着かせようとすると、Aは身構えるようにして「S(A夫人)は ? 私は妻と食事をすることになっている」と、表情が変わった。A夫人は貞淑な妻だと思う。彼に会いに来るたび、手入れの届いた衣類を携えている。ここの男性の中ではトップ・ドレッサーと言えるだろう。「午後いらっしゃるでしょう」とスタッフが言ったが、その言葉をAは数分後にはもう忘れているということを後日私は悟った。重度の認知症だと聞いたが、テーブル・マナーから品の良さが窺えた。怖いような深刻な表情は崩れなかった。
 ラウンジ・ルームを並んで歩く形になった時、私は思わずAに「スマイル ! 」と言った。彼は怖い表情のまま、私に視線を移した。「スマイル ! 」と繰り返すと複雑な表情に変わったのでもう1度「スマーイル ! 」と言ったら、固く結んでいたAの唇がわずかに弛んだので「そう、その通り」と手を叩くと、今度は本式に口許が弛み、「Sは ? 」と周囲を見回した。
 ある日、私がドアを開けたらAが自分の部屋の外に立っており、「あなたは私の隣人ですね」と訊いた。そうだと答えると彼は2、3度頷き、わずかに微笑んだ。別人の表情だった。そして「隣人なら知っているでしょう ? 私の名を教えてください」。私は彼のドアに付けてある名札を指し、「これが貴方の名前です。貴方の名前はA」。彼は驚いた表情をし、指で名札をなぞった。
 A夫人から聞くところによると、以前の彼は完璧な紳士だったが、認知症の兆しが見え始めたころから暴力を振るうようになったという。認知症は進行するし、心臓に欠陥のある彼女の手に負えなくなったので、ここへの入居の運びとなったのだそうだ。

極楽とんぼの雑記帳

 ところが、Aにガールフレンドができた ! 以前も、彼がひどく醜い部類に入る老女(醜いだけでなく、とても陰険な感じ)と手をつなぎ、脇目もふらず館内を歩いているのを見かけたものだが、その老女ではなく、Kという見事な認知症の老女である。Kは元歌手だったと聞く。彼女には悪い癖がある。身辺の物はすべて自分の物だと思い込んでいるのだ。ぱんぱんに膨れたKのバッグの中身を調べたら、ナイフ、フォーク、スプーン、コップ、ナフキン等々がぎっしり。バッグに入りきれない分はポケットや袖の内側、衣類と肌の間に押し込む。スタッフが取り上げようとすると「It’s mine ! 」としがみつく。手を取り合ってAとKは館内や庭を行ったり来たり。距離にしてどれくらいになるのやら、疲労困憊したAは、こむら返しのために難儀、難儀。アプローチするのはいつもK。彼女は男性のスタッフを呼ぶ時は昔亡くなった夫の名で呼ぶ。Aは「darling」だ。
 ある日、Aの補聴器がなくなった。スタッフが探し回った結果、見つかりました ! どこで ? Kのベッドで ! A夫人がこれを知ったらどんな思いを… ? 勿論、彼女には知らされていないが。AとKの関係をA夫人は(夫妻に子どもはない)「私がそばに居てあげられないのですから、孤独な彼の空っぽな心が充たされるならKの存在に感謝するべきでしょうね」と言っていると聞いた。A夫人の心中を察し、私は涙ぐましい気分になった。A夫人の夫への愛の深さ。私にはとても真似はできない。
 Kは何とかしてホームの外へ出ようとする。私が外出先から帰って来るのがフロントのガラス戸越しに見えると、重いドアの内側で待ちかねているので、受付の人が手助けしてくれなければ、Kは私を押しのけて外に出るかもしれない。居住者の一部(私を含め)は、暗証番号を押すとドアが開くし、夕方以降は個人の秘密番号を使う。AとKは訪問客の多い混雑したすきを狙って何度か抜け出したことがある。いつもKのアイデアによる。
 こんな間柄の2人だが、お互いをけろりと忘れ、すれ違っても全く知らない間柄のように見向きもしないことがしょっ中である。ラウンジのソファーに離れて座っていた時、KがAの注意をひこうと、精出してセレナーデを歌い続けるのに知らん顔のA、やおら立ち上がると、例の難しそうな深刻な表情のまま、すーっとラウンジを出て行く。見向きも振り返りもせずに。
 食事の時、2人は別のテーブル。Kの食事はナイフを使わず食べられるよう、潰したものが出される。彼女はそれを指で丸めて並べる。Aは、それを「ふん」と言った表情で見ている時があるが、やがて視線をそらしてしまう。認知症同士の”老いらくのロマンス”に幸あれ。
 事もあろうにこの私にアプローチしたジイサンがいた。私はどうしたか ? アカンベエをしてから悠々とその場を離れたのである。


筆者プロフィル/ブレア照子(Teruko Blair)
1925年生まれ、広島市出身。旧制女学校卒。45年、広島市内の自宅で被爆。第2次世界大戦終戦の数年後に知り合った豪軍人ウィリアム・ブレアと結婚し、53年に来豪。82年に死別した夫との間に3人の子どもがいる。現在サウス・コースト在住。著書に、本紙に連載していたエッセイをまとめた「オーストラリアに抱かれて」、現在も本紙連載中の「英語とんちんかん記」(ともにテレビ朝日出版)がある。本連載のイラストを手掛けるシドニー在住の絵本作家・森本順子は実妹に当たる。

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